10.追記~次郎長の家系図
清水次郎長の子孫にあたる方からお手紙を頂きました。お手紙の内容を記載させて頂きます。
お手紙をくださった方は、高田けんさんのお孫さんにあたる方です。高田けんさんは、清水次郎長の姪で、養女でもある江尻志茂町にあった遊郭、千畳楼(せんじょうろう)の女将(おかみ)まつの四女にあたる方です。
この女将(おかみ)まつさんもその跡継ぎのいそさん(諸田玲子さんの時代小説『波止場浪漫』ではイソと平仮名で登場します。)も家系図に記載されております。
お手紙をくれた方は、「清水次郎長には子供は存在されないので、真実を記載してください。」と書かれておりました。
私が、諸田玲子さんの時代小説『波止場浪漫』の解説(=あらすじの記載)で、「初志郎は次郎長が三河の女に産ませた子で、次郎長を『親父』、おちょうを『母さん』と呼んでいた。」と記載したことを問題にしたのではないのでしょうか?
私は、諸田玲子さんの『波止場浪漫』を読んで、少なくとも「おようさん」は架空の人物であると確信いたしましたが、次郎長の実子として登場する「桜井初志郎」は、もしかしたら実在の人物かもしれないと思った時もありました。今回のお手紙で架空の人物であることがはっきりいたしました。
しかし、時代小説を書くのは大変ですね。できる限り事実に沿って書かないと関係者からクレームがつきますし、小説(=作り話)である以上、読者を引きつけるような創作も必要であります。
その後、次郎長の実子として登場した「桜井初志郎」は、度々、『悪役』というよりも『いじけ役』・『ひねくれ者』として登場します。次郎長の関係者からみると耐えられないかもしれませんね。
山本けん(昭和9年~大正10年)
植木重敏(元治元年~昭和7年)
植木重敏先生について
では、おけんちゃんの相手役の植木重敏先生はどうでしょうか?写真があるから実在の人物と決めつける前に、もう一度、ネットで調べてみました。
「横浜わが街シリーズのNo.386 清水の次郎長、横浜に通う」には次のように記載されておりました。隣の写真に写っている『次郎長の風景』という雑誌が基になっていると思われます。
『次郎長翁を知る会』という会があります。確か、代表は竹内宏さんで、実際の運営は、清水次郎長の研究第一人者の田口栄爾(故人)であります。その会報の第29号に『植木重敏』先生のことが記載されております。
明治26年6月12日に亡くなった次郎長葬儀の諷経帳(香典の記録)の中に植木重敏の名がしっかりと書かれていた。その隣には芝野栄七の名があった。二人は次郎長葬儀に連れ立って参列したのではないだろうか。
大正10年に亡くなった次郎長とおちょう夫妻の養女山本けんの葬儀の記録には、棺(ひつぎ)の傍に立つ人として、青木久吉、増田勇蔵、篠原幹三郎、入谷清太郎、加藤市五郎に並んで、植木重敏の名が書かれている。次郎長の親族、知人の中でも最も重要な人たちばかりだ。
大正10年に亡くなった次郎長とおちょう夫妻の養女山本けんの葬儀の記録には、棺(ひつぎ)の傍に立つ人として、青木久吉、増田勇蔵、篠原幹三郎、入谷清太郎、加藤市五郎に並んで、植木重敏の名が書かれている。次郎長の親族、知人の中でも最も重要な人たちばかりだ。
服部さんはその後、植木重敏の妻が、見付天神の宮司を代々つとめる幡鎌家から出ていることをつきとめ、袋井市の同家を訪ね、戸籍簿や次郎長が植木医師に宛てた手紙などのコピーを手に入れた。その成果は「季刊清水」第30号(平成5年)に詳述されている。