5.難攻不落の蒲原城の落城
実はこういう話なんです。あまりにもこの城が堅固だということで、それではおびき出そうということになったのです。(武田軍が)蒲原の本陣を、六本松いわゆる今の蒲原中学校のあたりに置いていたんです。
そして、「この城をそのままにして薩った峠を通って駿府の城の方へ行こう」ということで触れ回ったのです。そして、先陣とかそういったのはもうずんずんずんずん由比の方へ移っていったんですよ。
それを見て、北条新三郎という城主が、そうしてはなるものか、ということで追っていくような形になるんですよね。それで、先陣のほうと本陣の間に入って行って、逆に挟み撃ちになっちゃたのです。
そして、「この城をそのままにして薩った峠を通って駿府の城の方へ行こう」ということで触れ回ったのです。そして、先陣とかそういったのはもうずんずんずんずん由比の方へ移っていったんですよ。
それを見て、北条新三郎という城主が、そうしてはなるものか、ということで追っていくような形になるんですよね。それで、先陣のほうと本陣の間に入って行って、逆に挟み撃ちになっちゃたのです。
『武田軍記』渡邊和子(まさこ)さんが、現代文に訳したもの
蒲原城攻防戦
永禄12年(1569)1月、北条氏康、氏政父子は、武田信玄が駿河を横領した無道を責めて、4万5千の兵を率い、小田原から駿河に入り、順次陣を取って蒲原城をも陥入れ、この城は氏康の信頼厚い北条新三郎という勇士を主将に、新三郎の弟の箱根少将長順と共に守らせ、塁を高くし、溝を深くさせました。
ところがその年の半ば頃、武田信玄が駿河を奪還しようとする気配が見えたので、氏康は蒲原城に大郭を築いて、兵を募って益々守りを堅くさせたのです。
12月4日信玄は本栖街道から大宮、岩本を経て先ず岩淵の宿を焼き、蒲原に押し寄せました。そして城中に使者を送り、城将北条新三郎に「此の度、所々の城々何れも明け渡し候間、当城も渡すべし、兵卒及び城を渡さば、子を護って小田原に帰らしむべし」と、通告しました。これを聞いて新三郎は怒って「予はいやしくも関東に勇名を顕はしたる北条三郎長綱入道幻庵が倅なれば、自余の者とは違うなり、新三郎、命ある限り得こそ渡すまじ、城望み候はば、一戦を研ぐべし」と答えました。信玄は城の堅固なのを見て「この城要害堅固なれば宜しく説いて降すべきなり」と重ねて使いをやりましたが、新三郎はききいれません。
そこで信玄は一計を案じ、武田勝頼と小山田備中守昌重に兵を分け、小山田の兵は囲みを解きながらワザと大声で「明日は駿府の城に取り掛るべし、此の所蒲原は重ねての儀になさるべし。ここに於いて人数を損じ、駿府の城に手間取っては旁々以っていかがや」と触れながら、5日の夜中に立って海岸沿いに西へ進み、夜明けに由比倉沢に着きました。その中の小山田将監の率いる5百余人の兵は先陣となって旗本から離れて先行し、浜須賀に行っていた。城将北条新三郎は(敵が僅かの城を軍勢で押通るを見物しては通すまじ)と、城の精兵千八百を悉く率いて、城門サツと押開き、先陣と旗本の間に突き入りました。
すると小山田は事が筋書通りになったので倉沢から引返し戦ったので城兵は(サテハ敵の計略であったのか)と知り、新三郎初めとし死を決して戦ったので、甲州方にも相当の痛手与え、小幡弾正や、甲州兵を多数討ち取りました。
その頃、それまで栗の木平に隠れていた武田勝頼の軍は、城兵が城を出たのを見届けて、道場山から進んで城を取り囲みました。その時城に残っていたのは、老兵と婦女子を併せて二百人計りで、防ぎきれず、追い詰められて逃げ場を失い、裏山に向かって布で橋をかけ、布橋にすがって逃げ出しました。やがてそれを甲州兵に見つけられ、その命の綱を断ち切られたから、憐れな人々は阿鼻糾喚のうちに、重なり合って向田川の数十丈の崖下に落ちて死にました。そのため向田川は朱に染まり、幾日も血の流れが続いたそうです
しまったと、街道に出て戦っていた新三郎初め城兵は、城に立てこもって戦おうとして引き返して城に逃げこんで行くが、甲州方の追撃激しく、今は味方も主従28騎となる。新三郎は弟箱根の少将他全員を前後左右に従え真一文字に切り込み、死にもの狂いで戦うも多勢に無勢、味方は減り10騎余になってしまった。新三郎はもはやこれまでと主従10余騎腹を切ったと武田軍記は伝えています。この戦いで新三郎を始め711騎が討たれました。その他にも殺された人もおり千人前後の人が亡くなったものと推測されます。
また別の説では(もはやこれまで)と新三郎は、山伝いに東町諏訪神社横の小高い処にあった常楽寺に入り、寺に火を放って焼き、その中で自刃したとしています。
ところがその年の半ば頃、武田信玄が駿河を奪還しようとする気配が見えたので、氏康は蒲原城に大郭を築いて、兵を募って益々守りを堅くさせたのです。
12月4日信玄は本栖街道から大宮、岩本を経て先ず岩淵の宿を焼き、蒲原に押し寄せました。そして城中に使者を送り、城将北条新三郎に「此の度、所々の城々何れも明け渡し候間、当城も渡すべし、兵卒及び城を渡さば、子を護って小田原に帰らしむべし」と、通告しました。これを聞いて新三郎は怒って「予はいやしくも関東に勇名を顕はしたる北条三郎長綱入道幻庵が倅なれば、自余の者とは違うなり、新三郎、命ある限り得こそ渡すまじ、城望み候はば、一戦を研ぐべし」と答えました。信玄は城の堅固なのを見て「この城要害堅固なれば宜しく説いて降すべきなり」と重ねて使いをやりましたが、新三郎はききいれません。
そこで信玄は一計を案じ、武田勝頼と小山田備中守昌重に兵を分け、小山田の兵は囲みを解きながらワザと大声で「明日は駿府の城に取り掛るべし、此の所蒲原は重ねての儀になさるべし。ここに於いて人数を損じ、駿府の城に手間取っては旁々以っていかがや」と触れながら、5日の夜中に立って海岸沿いに西へ進み、夜明けに由比倉沢に着きました。その中の小山田将監の率いる5百余人の兵は先陣となって旗本から離れて先行し、浜須賀に行っていた。城将北条新三郎は(敵が僅かの城を軍勢で押通るを見物しては通すまじ)と、城の精兵千八百を悉く率いて、城門サツと押開き、先陣と旗本の間に突き入りました。
すると小山田は事が筋書通りになったので倉沢から引返し戦ったので城兵は(サテハ敵の計略であったのか)と知り、新三郎初めとし死を決して戦ったので、甲州方にも相当の痛手与え、小幡弾正や、甲州兵を多数討ち取りました。
その頃、それまで栗の木平に隠れていた武田勝頼の軍は、城兵が城を出たのを見届けて、道場山から進んで城を取り囲みました。その時城に残っていたのは、老兵と婦女子を併せて二百人計りで、防ぎきれず、追い詰められて逃げ場を失い、裏山に向かって布で橋をかけ、布橋にすがって逃げ出しました。やがてそれを甲州兵に見つけられ、その命の綱を断ち切られたから、憐れな人々は阿鼻糾喚のうちに、重なり合って向田川の数十丈の崖下に落ちて死にました。そのため向田川は朱に染まり、幾日も血の流れが続いたそうです
しまったと、街道に出て戦っていた新三郎初め城兵は、城に立てこもって戦おうとして引き返して城に逃げこんで行くが、甲州方の追撃激しく、今は味方も主従28騎となる。新三郎は弟箱根の少将他全員を前後左右に従え真一文字に切り込み、死にもの狂いで戦うも多勢に無勢、味方は減り10騎余になってしまった。新三郎はもはやこれまでと主従10余騎腹を切ったと武田軍記は伝えています。この戦いで新三郎を始め711騎が討たれました。その他にも殺された人もおり千人前後の人が亡くなったものと推測されます。
また別の説では(もはやこれまで)と新三郎は、山伝いに東町諏訪神社横の小高い処にあった常楽寺に入り、寺に火を放って焼き、その中で自刃したとしています。
これ以降、岩戸山常楽寺は廃寺となり、檀家は瑞現山竜雲寺に合併され、山号を改めて、岩戸山竜雲寺というようになった。
常楽寺跡の丘の上に北条新三郎の墓が残っていて、その戒名は「常楽寺殿衝天良月大居士」である。その時一緒に葬った38名の過去帳と位牌が善福寺や龍雲寺に残っています。
常楽寺跡の丘の上に北条新三郎の墓が残っていて、その戒名は「常楽寺殿衝天良月大居士」である。その時一緒に葬った38名の過去帳と位牌が善福寺や龍雲寺に残っています。
渡邊俊介さん執筆中の原稿から『蒲原城跡』の箇所を頂きました。
蒲原城跡
蒲原城は、旧蒲原町のほぼ中央にある標高137mの城山三町に本郭を置き、その周辺を
階段のように峰を削った出曲輪(でぐるわ)で固めています。自然の条件に恵まれた峰式の山城で、戦国のころの難航不落の城として知られ、現在も城の跡が残っています。この城は、天文年間(1532-1555)の初め、駿河の今川氏が、河東の乱を予想して、ふもとに居館を備えた山城として築かれたと思われます。
城域の北側から善福寺区へは峰つづきで、この城の最大の弱点になっていましたが、堀切や大・小の帯曲輪で補強しています。
永禄11年(1568)11月、駿河今川氏最後の当主氏真は、甲斐(山梨県)の武田氏の駿河侵攻の前に服従します。翌12年1月、今川氏と軍事同盟者の北条氏が駿河に進出し、蒲原城には北条新三郎が入城します。しかし、同年(1569)11月武田氏が三度駿河侵攻し、同12月6日、武田氏の城攻めにあって落城し、城は武田氏のものとなります。そして、永禄13年(1560)5月、武田氏に屈服した土豪や小領主」たちを統合して「蒲原衆」を編成し、この地方の治安の維持に当たりました。その後、蒲原城は天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の攻撃によって落城し、城は徳川の管理下に置かれました。天正18年(1590)7月、徳川氏が関東を移封された後に、城は廃城になりました。
階段のように峰を削った出曲輪(でぐるわ)で固めています。自然の条件に恵まれた峰式の山城で、戦国のころの難航不落の城として知られ、現在も城の跡が残っています。この城は、天文年間(1532-1555)の初め、駿河の今川氏が、河東の乱を予想して、ふもとに居館を備えた山城として築かれたと思われます。
城域の北側から善福寺区へは峰つづきで、この城の最大の弱点になっていましたが、堀切や大・小の帯曲輪で補強しています。
永禄11年(1568)11月、駿河今川氏最後の当主氏真は、甲斐(山梨県)の武田氏の駿河侵攻の前に服従します。翌12年1月、今川氏と軍事同盟者の北条氏が駿河に進出し、蒲原城には北条新三郎が入城します。しかし、同年(1569)11月武田氏が三度駿河侵攻し、同12月6日、武田氏の城攻めにあって落城し、城は武田氏のものとなります。そして、永禄13年(1560)5月、武田氏に屈服した土豪や小領主」たちを統合して「蒲原衆」を編成し、この地方の治安の維持に当たりました。その後、蒲原城は天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の攻撃によって落城し、城は徳川の管理下に置かれました。天正18年(1590)7月、徳川氏が関東を移封された後に、城は廃城になりました。
一方、北の方へ目を向けますと、武田軍がやはり虎視眈々と狙っておりました。
蒲原城は、北条、武田の両方に、目を配りながらこの地域を守っていたのです。さすがの信玄も、この城をまともに落とすことというのは避けたという非常に堅固な城でした。この蒲原城は、何とか防御の役目は果たしていたんですが、残念ながら信玄の策略に引っかかって落ちてしまったということになっています。」
「何か遺構は残っているんですか。」
蒲原城は、北条、武田の両方に、目を配りながらこの地域を守っていたのです。さすがの信玄も、この城をまともに落とすことというのは避けたという非常に堅固な城でした。この蒲原城は、何とか防御の役目は果たしていたんですが、残念ながら信玄の策略に引っかかって落ちてしまったということになっています。」
「何か遺構は残っているんですか。」
とにかく蒲原城は東海道で一番の堅固な城という風に言われましたから、そのお城の守りを見ていただきたい、とそういう風に思うんですけどね。」
広大な敷地をもち、信長も訪れた蒲原御殿と、武田信玄の策略によって落城の憂き目を見た、蒲原城。
『兵(つわもの)どもが夢の跡』は、この春もあでやかな桜の花で彩られます。
『兵(つわもの)どもが夢の跡』は、この春もあでやかな桜の花で彩られます。
お話は、木屋江戸資料館 館長の渡邊和子(まさこ)さんと代表の渡邊俊介さんでした。
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
お相手は、石井秀幸でした。
この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いの税理士法人いそべ会計がお送りしました。税理士法人いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。