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 1.蒲原・御殿山の由来を訪ねて
 『木屋江戸資料館』に向けて出発いたしました。思えば、清水歴史散策の第壱話が『蒲原の木屋江戸資料館を訪ねて』でした。あれから5年目の歳月が流れます。5年前は清水の歴史は全く知らず、この『木屋江戸資料館』の名前も初めて聞く名前でした。
 当初の予定では、エフエム清水の『清水歴史探訪』も私の『清水歴史散策』も1年間の全12話でお終いの予定でしたが、最初に出会った蒲原の人達がかなり親切で気を良くしてここまで続けたのでした。
 この5年間、『清水歴史散策』を続けたことによって新しい発見もあり、知らない人との出会いもありそれなりに楽しかったのですが、会計事務所業務の合間に『清水歴史散策』を続けることはかなり大変でした。体力も落ち、目も悪くなってきました。これ以上続けると本業に差し障りがありそうなので、今回が最後の『清水歴史散策』になります。最初と最後が、『木屋江戸資料館』の渡邊さんにお世話になります。
(清水歴史探訪より)

清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
 
 毎月第2土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
 
 
 
 毎年春になるとお花見で賑わう、蒲原の御殿山(ごてんやま)。御殿山と呼ばれるのには、どんな由来があるのでしょうか。
 
 3階建ての文書蔵に地域の古い資料を伝える、『木屋江戸資料館』を訪ねました。
 
 
・・・扉を開ける音・・・
 
 
 「館長の渡邊和子(まさこ)さんに伺います。宜しくお願いいたします。」
 「宜しくお願いします。」
 「さて、そろそろ桜の季節、蒲原といいますと、御殿山の桜というのが非常に有名なんですが、この『御殿』というのはどういう由来があるのでしょうか。」
 
 
御 殿 山 の 桜
「実は、徳川家康が、織田信長が武田成敗して帰るときに接待をした場所というのが、御殿屋敷なんですね。
武 田 征 伐
 甲州征伐(こうしゅうせいばつ:武田征伐とも言われる。)は、1582年(天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。
「諸国古城之図」に描かれた近世初頭の御殿・御茶屋
      諸国古城之図・蒲原
 それが作られたのが、元々蒲原城に御茶屋があって、浅野文庫(諸国古城之図)の図面の中に出て来るんですが、その御茶屋をだんだん拡張していったんじゃないかなと思うんです。
 
 
 「諸国古城之図・蒲原」に描かれた蒲原城及び周辺の図によれば前記御殿・御茶屋の初期段階と言える御茶屋や馬場がある。徳川時代より前の今川時代の可能性もある。連歌師宗牧の「東国紀行」では天文14年(1545)12月「おり湯」をもつ休伯施設が確認されており、今川時代に御茶屋の原型となる居館が成立していたことも考えられる。
 そこで信長を接待して大変喜んだという記録が、『信長公記(しんちょうこうき)』に出て来るんです。その当時は、信長は大変喜んでお酒を酌み交わしながら、色々な地元の伝説を聞いたんですが、そのわずか2ヶ月後に本能寺の変で亡くなっているんですね。
 
本 能 寺 の 変
 本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。
 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自害した。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。
 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 その後、秀吉もみんなこのお屋敷には来るんですけれども、拡張工事がだんだん行われていって、秀忠、家光までに大きな御殿屋敷というのが出来上がっていきます。」
「第日本五道中図屏風」の一部(財団法人三井文庫蔵)
 
 「この蒲原といいますと、蒲原城というのもあるんですけれども、この蒲原城とこの蒲原御殿というのは、違いはどういうものがあるんでしょうか。」
 
 「蒲原城の一角に御茶屋、という記録があります。その御茶屋をだんだん発展してお屋敷にした、というか接待場所にしたのが御殿屋敷ということですね。
 
 家光(の代)まで使われたって言ったんですけど、参勤交代の制度が決められますと、将軍が動かなくて、大名が動くようになると、そのお屋敷は使われなくなっていきます。
 そこに1699年(元禄12年)、元禄の大津波と呼ばれる巨大な台風が蒲原を襲いました。その時にまっすぐ伸びていた蒲原の宿場が、一夜のうちに高潮で流されてしまうんですね。
 
元禄の大地震と元禄の大津波について
 元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った元禄の大地震が起きます。この時にも大津波が発生しております。震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、マグニチュード(M)は7.9-8.5と推定されております。
 私は、『蒲原の元禄の大津波』はこの時に起きた大地震の結果ではないか?もしかしたら、渡邊さんは間違ったのではないか?と思っておりましたが、日本地質学会の資料によると、『1680年または1699年の高潮によると思われる堆積物も確認されている。』と記載されておりました。
  地震ではなく、台風によってこんな大きな高潮が起きるんですね!!

 その後、今度は立て続けに宝永の大地震(宝永4年(1707)10月4日)、宝永の噴火(宝永4年11月23日~)ということが起きてきて、蒲原宿は大きな被害にあってしまいました。
宝 永 地 震
 宝永地震(ほうえいじしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖を震源域として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている。
 地震の揺れによる被害は、東海道、伊勢湾沿い、および、紀伊半島で最も顕著であり、袋井宿では建屋が残らず潰れ、白須賀宿も潰れた後津波で流失した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
宝永大噴火
 宝永大噴火(ほうえいだいふんか)とは、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火である。2017年現在、最も新しい富士山の噴火となっている。
 
 図の説明だが、南から見た富士山の宝永火口、火口の位置:1(第一火口)、2(第二火口)、3(第三火口)、4(宝永山)である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 宿場が流されたということで、空いていた蒲原御殿の所に、各家が同じ間口で山側に新しい宿場を作っていったわけです。その宿場が今残っている旧宿場跡ということになります。」
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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