1.根岸錦蔵(きんぞう)と飛行機との出会い
飛行場を開いた根岸錦蔵(ネギシキンゾウ)とはどんな人物だったのか。この飛行場について調査している井口義久さんを訪ねました。
「そもそも根岸錦蔵という人なんですけれども、この方はどういう方だったんですか?」
根岸錦蔵(きんぞう)
- 明治35年(1902)東京市日本橋区で、砂糖問屋の次男として生まれる。
- 大正4年(1915)13歳で勘当され、印刷局の札切をしながら東京工科学校夜間へ通学
- 大正6年(1917)15歳で赤羽飛行機製作所(所長岸一太)の飛行機助手
- 大正9年(1920)赤羽飛行機製作所倒産に伴い7月退職
- 大正9年(1920)福長飛行機研究所練習生となる。(18歳)
- 大正13年(1924)三保に臨時飛行機着陸場、静岡民友新聞社嘱託飛行士となる。
- 昭和2年(1927)魚群探査開始
- 昭和6年(1931)高層気象観測開始、翌年気象台嘱託となる。
- 昭和10年(1935)女満別にて流氷観測開始
- 昭和19年(1944)気象台による流氷観測終了
- 昭和58年(1983)81歳にて亡くなる。
「東京は日本橋の砂糖問屋の息子さん。日本橋の砂糖問屋といえば裕福な家(うち)なんで、だから家はすごく良いんです。
そして彼はね、所沢に飛行場ができたのを知って、小学校の五、六年ぐらいから学校を行ったふりをして、さぼって、日本橋から所沢まで行ったんです。毎日見に行った。まだ小学生ですよ。」
そして彼はね、所沢に飛行場ができたのを知って、小学校の五、六年ぐらいから学校を行ったふりをして、さぼって、日本橋から所沢まで行ったんです。毎日見に行った。まだ小学生ですよ。」
アメリカのライト兄弟が動力飛行機により初飛行したのが、明治36年ですから、その当時の日本の航空界は、外国の技術を導入し、ようやく離陸し始めたところでした。
「徳川大尉、日野大尉の二人が、それぞれフランスとドイツに行って、操縦を覚えて飛行機を買ってきたんです。そして、明治43年(1910)の12月、代々木練兵場で日本初飛行に成功したんです。
その後、国内卒業生が加わって指導者が揃ったのです。それから生徒を募集して本格的に陸軍の航空隊を作り始める。飛行機はまだむこうから買ってくるんです。」
「まだ日本では作れないのですか?」
「まだできない。だけど作ろうという気にはだんだんね。だから飛行機も後で作るようになるんですけど。最初は買ってきた。民間航空界では明治44年(1911)より作り始めたのです。」
「まだ日本では作れないのですか?」
「まだできない。だけど作ろうという気にはだんだんね。だから飛行機も後で作るようになるんですけど。最初は買ってきた。民間航空界では明治44年(1911)より作り始めたのです。」
陸軍の所沢飛行場に通い詰める錦蔵に、ある中尉が声をかけたところから、彼の運命の歯車が大きく回り出します。
「そして長澤という中尉、根岸錦蔵が毎日学校をさぼってくるもんだから、『小僧ね、見せてやるから』と言って操縦席に乗せたんです。」
「まだ小学生なのに?」
「まだ小学生。飛ばない飛行機。地上にある飛行機の操縦席に乗っけたんです。それから根岸錦蔵はね、それに頭いっぱいになって、親父が怒っちゃって、『お前は砂糖問屋の後継ぎだから。』とうとう勘当されちゃうのです。
勘当されたけど、叔父さんの紹介で、岸(一太)さんという人と出会うんです。岸さんは医者の勉強にドイツ行ったのに金属材料や飛行機の勉強もしてきたんです。」
「飛行機好きが周りに多かったんですね。」
「その岸さんが今度は飛行機を作ることなんかも始めたわけなんです。
「まだ小学生なのに?」
「まだ小学生。飛ばない飛行機。地上にある飛行機の操縦席に乗っけたんです。それから根岸錦蔵はね、それに頭いっぱいになって、親父が怒っちゃって、『お前は砂糖問屋の後継ぎだから。』とうとう勘当されちゃうのです。
勘当されたけど、叔父さんの紹介で、岸(一太)さんという人と出会うんです。岸さんは医者の勉強にドイツ行ったのに金属材料や飛行機の勉強もしてきたんです。」
「飛行機好きが周りに多かったんですね。」
「その岸さんが今度は飛行機を作ることなんかも始めたわけなんです。
根岸錦蔵は、そこへ弟子入りして、その岸さんという人に全部教わった。最初は木工とか、鍛工(たんこう)とか、鋳物、鋳型を作るとかから始まって、エンジンや機体の制作まで教わったんです。
さらに、助手席に乗っけてもらって軍へ納める前に試運転するんです。
最初は自分では操縦させてはくれないから、二人乗りの後ろの方の助手席から見ていただけかもしれません。とにかく、最初は後ろの方に座って勉強したんです。」
さらに、助手席に乗っけてもらって軍へ納める前に試運転するんです。
最初は自分では操縦させてはくれないから、二人乗りの後ろの方の助手席から見ていただけかもしれません。とにかく、最初は後ろの方に座って勉強したんです。」