3.家康公手習いの間
家康さんが松平竹千代の時代、8歳から14歳頃まで竹千代さんと呼ばれていまして、家康さんは駿府におりました。
家康さんが、このお寺でお勉強したのはまた幼少期になりますが、このお部屋は後の時代に建てられたお部屋です。ですから、このお部屋で家康公、竹千代さんはお勉強してないんですよ。」
「そうなんですか。」
「はい。今川家の菩提寺(ぼだいじ)っていうのは臨済寺(りんざいじ)でした。
家康さんが、このお寺でお勉強したのはまた幼少期になりますが、このお部屋は後の時代に建てられたお部屋です。ですから、このお部屋で家康公、竹千代さんはお勉強してないんですよ。」
「そうなんですか。」
「はい。今川家の菩提寺(ぼだいじ)っていうのは臨済寺(りんざいじ)でした。
その臨済寺の住職であって、今川家の軍師という非常に重要な役目、ナンバー2の偉い方で、太原雪斎(たいげんせっさい)っていう方がおりました。
この太原雪斎(たいげんせっさい)は、理由があってこの清見寺の住職も兼務していたのです。太原雪斎(たいげんせっさい)が、この清見寺に仕事に来るとき竹千代さんを連れて来たり、あるいは『おい、こっち来いよ』って呼び出したりして、勉強したのはこの建物の前の時代の建物なんです。
その後だんだん家康さんが大きくなった頃、武田側と徳川さんの争いになったのです。もし武田の軍勢にこの清見寺を占拠されると駿府の町が非常に攻められやすくなって危ないって心配したんです。それで、臨済寺とこの清見寺の両方を勝ったら建て直すという約定の元に焼き払っちゃったんです。」
「はい。」
「それで勝ちましたので、この建物を建てたんです。ということで、お寺さんが家康を顕彰(けんしょう)するために後から造られたお部屋なのです。」
この太原雪斎(たいげんせっさい)は、理由があってこの清見寺の住職も兼務していたのです。太原雪斎(たいげんせっさい)が、この清見寺に仕事に来るとき竹千代さんを連れて来たり、あるいは『おい、こっち来いよ』って呼び出したりして、勉強したのはこの建物の前の時代の建物なんです。
その後だんだん家康さんが大きくなった頃、武田側と徳川さんの争いになったのです。もし武田の軍勢にこの清見寺を占拠されると駿府の町が非常に攻められやすくなって危ないって心配したんです。それで、臨済寺とこの清見寺の両方を勝ったら建て直すという約定の元に焼き払っちゃったんです。」
「はい。」
「それで勝ちましたので、この建物を建てたんです。ということで、お寺さんが家康を顕彰(けんしょう)するために後から造られたお部屋なのです。」
「では、記念碑的なお部屋なわけですね。」
「そういうことですね。記念碑的なお部屋っていうことで理解していただくと分かりますが、なんか直接的にこう見るとなんとなくね・・・。」
「そうですね。狭いですし寒そうですし、家康公がいたとはとても思えないですね。」
「そうですね。だから冷遇したんじゃないかなってイメージに繋がるんですけど・・・。
決して冷遇したなんてことはなくて、今川家では、三河の若大将がこれから今川家を、また応援していただくということを期待込めて、重臣並みの教育をしたりしたわけです。ですから、人質っていう言葉がちょっと当てはまらなくて、今の言葉で言うと研修という言葉の方がいいのかもしれないということですね。」
「そういうことですね。記念碑的なお部屋っていうことで理解していただくと分かりますが、なんか直接的にこう見るとなんとなくね・・・。」
「そうですね。狭いですし寒そうですし、家康公がいたとはとても思えないですね。」
「そうですね。だから冷遇したんじゃないかなってイメージに繋がるんですけど・・・。
決して冷遇したなんてことはなくて、今川家では、三河の若大将がこれから今川家を、また応援していただくということを期待込めて、重臣並みの教育をしたりしたわけです。ですから、人質っていう言葉がちょっと当てはまらなくて、今の言葉で言うと研修という言葉の方がいいのかもしれないということですね。」