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 7.NHK人間講座『朝鮮通信使』の解説(下)
大坂 川口
川口波止場
 朝鮮通信使の一行は、土佐堀川(大坂の川口の河口より大阪市内を流れる旧淀川の分流の一つ)をさかのぼるため、川御座船に乗りかえました。大坂での宿は西本願寺津村別院(通称北御堂)でありました。
 大阪では、歌舞伎の題材にもなった鈴木伝蔵事件が有名です。通訳の鈴木伝蔵は、通信使に盗みの疑いをもたれ言い返したところ、杖で打たれので通信使を殺害してしまい、処刑されたのです。
 通信使を乗せた川御座船は、山城の淀(京都区伏見区)まで運航されました。
京都・方広寺と耳塚
 大坂~京都
 
 朝鮮通信使の船団一行は、淀城のあるところで下船し、はじめて陸路で京都へ向かいます。
 京都での宿は、最初の3回が紫野大徳寺、1回が本能寺、7回が本国寺でありますた。ところで、京都ではしばしば方広寺大仏前で帰路、供宴が開かれました。方広寺は秀吉の発願によりできたお寺です。第9回目の享保4年(1719)の朝鮮通信使に時に問題となり、次回からは方広寺での供宴は中止されました。方広寺の近くには朝鮮出兵時の耳塚があります。
 方広寺
 耳塚
耳塚を訪れた通信使
 京都~彦根~大垣
 
 京都を出た一行は、大津から琵琶湖を見ながら彦根に向います。朝鮮通信使の一行は、琵琶湖と富士山の景観に最も期待を寄せていたのであります。
 
写真は、朝鮮通信使と琵琶湖
 名古屋での朝鮮通信使との会談
 美濃路(大垣)~名古屋
 
 朝鮮通信使の一行は、美濃路から名古屋に向った。朝鮮通信使の一行の中には、通信使一行の為の医者だけでなく、日本との医事問答するための医者もおりました。日本側も「良医」の同行を求めて医薬知識の吸収をはかろうとしておりました。
 さらに、朝鮮通信使との詩文の応酬も盛んでした。朝鮮通信使の一行から書や画を得ようと涙ぐましい努力をした人もおりました。 
 東海路から箱根を越えて
 
 名古屋から浜名湖の今切の渡しを通過した後、浜松から駿府(静岡)に入ります。駿府の宿宿は華陽院、宝泰寺などでありました。
写真は、通信使に随行する小童が、馬上で揮毫する図
 駿府の次は、いよいよ江尻、興津に入ります。ではここで、NHK人間講座『朝鮮通信使』の119ページの後ろから3行目以下を抜粋してご紹介いたします。
 
 江尻(清水市)には興国山清見寺がある。雪舟等楊も訪ねた鎌倉以来の名刹だが、この寺の山門に向かうと「東海名區」の扁額が眼にとびこんでくる。
 雨森芳洲と親交があり、釜山のみずからの館舎に「誠信堂」と名づけた正徳度信使の上判事ヒョングムゴクが書いたものだ。
 仏殿正面の「興国」の文字は明暦度の正使チョヒョン、鐘楼の「瓊瑤(けいよう)世界」は寛永20年度の製述官パクアンギのものである。このほか本堂に入るとおびただしい通信使一行の書跡・墨跡がある。また宝暦度の画員キムユソンのえがいた洛山寺(らくさんじ)図など四幅の画が屏風仕立で現存している。
 
写真は、朝鮮通信使の画像
 
  この洛山寺図は明暦度の従事官南龍翼(ナム・ヨンイク)がこの地の風光を朝鮮の洛山寺になぞらえたことを当時の僧が伝聞していて後年金有聲訪問の折に特に依頼して書きあげてもらったという。
 
写真は、朝鮮通信使の画
 通信使がこの清見寺に泊ったのは慶長度、寛永元年度の二回だが、後年の通信使も往復の途次に登閣することを期待していた。
 駿河湾を前にした風光の明媚さと共に歴代の寺僧との交流を楽しみとしていたのだろう。葛飾北斎の「東海道五十三次」のうち「由井」は通信使の一人が日本の役人や僧侶の前で墨痕鮮やかに「清見寺」としたためている絵柄である。
 
葛飾北斎の『由井』は、
『4.朝鮮通信使の歴史』に掲載しています。
 
 これは想像図だが通信使と清見寺の深いかかわりが広く知られていたことの証拠である。
 富士山もまた通信使に旅中の一大眺望としておおいに期待されていた。金仁謙(キム・インギョム)の『日東壮遊歌』は大きすぎた期待と実見してあらためて受けた感動を率直に告白している。
 
写真は、葛飾北斎の東海道五十三次の『原』
 
 
 興津清見寺を出た一行は、吉原から三島をへて、箱根峠で富士山を見ながら芦ノ湖の水と箱根の緑を堪能した後小田原にも宿泊し、江戸に向ったのであります。
第8回 江戸聘礼(へいれい)と江戸の人びと
江戸市内の行列ようす
邸内における歓待のようす(江戸城入場前後と思われる)
  日本橋の越後屋(三越)前を行進する朝鮮通信使
 江戸時代も中期となると、京都・大坂の人口が30~40万人なのに対して江戸は100万近い人口に成長しておりました。通信使一行が受けた印象は強烈だったと思われます。
 通信使一行の宿舎は、本誓寺、正徳寺から浅草の東本願寺に変遷しました。通信使の江戸滞在は12日間が最短で通例20~30日に及びました。江戸滞在期間中の最大の行事は、『国書伝令』であります。朝鮮国王の国書を、将軍家に渡す儀式なのですが、この儀式は朝鮮側からみると屈辱的なところがあったようであります。
 公式行事とは別に、馬上才の上演がありました。馬上才は騎馬民族の後裔(異論あり)である朝鮮民族の騎馬の戦闘技術から発達したものであります。
 百姓一揆
第9回 通信使の終焉と征韓論の登場
 
 最後の朝鮮通信使の訪問は、文化8年(1811)で、今までの聘礼(へいれい)とは次の点で大きく違っておりました。
 ①十一代将軍家斉の将軍職についたお祝いなのに24年も経過しておりました。
 ②聘礼の場所は江戸ではなく対馬だったのです。
 ③通常は500名程度の規模が総人員328名と縮小されました。
 このように、時間、場所、規模の変更は両国にありました。朝鮮国では、天災のため飢饉が発生しておりました。
 打ちこわし
 日本国はもっと深刻で、天明の飢饉により「百姓一揆」や「打ちこわし」が広がっておりました。この最後の朝鮮通信使の派遣は前例のないことばかりで、日朝間の交渉はかなり難航したようです。
 文化8年の最後の朝鮮通信使の後も、朝鮮通信使の派遣は検討されましたが、主として日本側の事情が許さず日本は明治維新を迎えることになります。
 幕末の日本は、尊王攘夷論や海防論が唱えられ、同時に神国意識や皇国史観が登場してまいります。朝鮮に対しては、善隣友好から征韓論に意識が変化してまいります。
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

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2.記帳業務
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■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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