1.清見寺と琉球使節の話
(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第2土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
旧東海道の要衝、清見ヶ関を起源とする古刹(こさつ)、清見寺(せいけんじ)。
前回は清見ヶ関の痕跡や、朝鮮半島との交流の足跡(そくせき)を辿(たど)りましたが、清見寺には他にも様々な歴史の記録が残っています。
今回も清見寺のボランティアガイドとして活動している、伏見鑛作(ふしみこうさく)さんにご案内いただきました。
前回は清見ヶ関の痕跡や、朝鮮半島との交流の足跡(そくせき)を辿(たど)りましたが、清見寺には他にも様々な歴史の記録が残っています。
今回も清見寺のボランティアガイドとして活動している、伏見鑛作(ふしみこうさく)さんにご案内いただきました。
まずは、一般のお寺の本堂に当たる、方丈に残された琉球との交流の記録です。
「ここに今大きな扁額があります。この扁額は琉球使節から頂いたものです。実は、琉球の方も朝鮮通信使と同じように、江戸の将軍様を訪ねて参府しています。
その時の王子様、具志頭(ぐしちゃん)という名前がついた琉球の王子様、その方が長旅の疲れで駿府城下でお亡くなりになったんです。家康公に拝謁した後にです。
それで、家康さんが気の毒だなってことで、この清見寺に埋葬することになったんです。ですから、この清見寺は、琉球使節にとってすごく大事なお寺ってことになります。
琉球使節団、江戸城で御用が済んだ使節の方は、帰りに必ずこのお寺に寄って、お参りして行くというのが通例になってます。
この大きな扁額を頂いたのは寛政2年(1790)です。
亡くなられた具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)の直系に当たる宜野湾(ぎのわん)王子が、180年経つと最初に建てたお墓も傷んでしまいまして、傷んだお墓をこの方が立派な五輪塔(ごりんとう)に修復してくれました。
それで、家康さんが気の毒だなってことで、この清見寺に埋葬することになったんです。ですから、この清見寺は、琉球使節にとってすごく大事なお寺ってことになります。
琉球使節団、江戸城で御用が済んだ使節の方は、帰りに必ずこのお寺に寄って、お参りして行くというのが通例になってます。
この大きな扁額を頂いたのは寛政2年(1790)です。
亡くなられた具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)の直系に当たる宜野湾(ぎのわん)王子が、180年経つと最初に建てたお墓も傷んでしまいまして、傷んだお墓をこの方が立派な五輪塔(ごりんとう)に修復してくれました。
写真の右側後方のお墓が最初のお墓で、左前方のお墓が宜野湾(ぎのわん)が建てたもの
「弘長2年(1262年)ごろまでは関所の守り仏があるだけでした。そのころ関聖という僧がここに本式の寺を建立いたしました。関聖上人については次のような話があります。
奥山に隠れ住んでいた老僧が居りました。毎日お経を上げていますと、そのたびに蛇がそれを聞きに来ました。変った蛇でして片目がつぶれておりました。蛇はある日姿を現わしませんでした。次の日も次の日も現われませなんだので、ついに老僧はどこかへ行ったものと諦めました。
しばらくして漁師が駿河湾で大きな蛸を捕らえました。それは変った蛸でして片目がつぶれておりました。村の人々はそんな片輪蛸を食べるのは縁起が悪いと思ったので、それを浜辺に埋めました。
奥山に隠れ住んでいた老僧が居りました。毎日お経を上げていますと、そのたびに蛇がそれを聞きに来ました。変った蛇でして片目がつぶれておりました。蛇はある日姿を現わしませんでした。次の日も次の日も現われませなんだので、ついに老僧はどこかへ行ったものと諦めました。
しばらくして漁師が駿河湾で大きな蛸を捕らえました。それは変った蛸でして片目がつぶれておりました。村の人々はそんな片輪蛸を食べるのは縁起が悪いと思ったので、それを浜辺に埋めました。
埋めたところには草が生い茂りました。村のやもめがその草を食べますと不思議にもみごもりました。男の子が生れましたが、片目がつぶれていました。
希望を失った女は子供を道連れにして死ぬ決心はいたしましたが、山に住んでいた老僧がそれを止め、子供を引き取って育てようと申し出ました。
その通り事がはこびまして僧は子供に仏の道を教えましたが、長じて関聖上人となり、清見寺を建立したのがこの子供なのです」
その通り事がはこびまして僧は子供に仏の道を教えましたが、長じて関聖上人となり、清見寺を建立したのがこの子供なのです」
広重は微笑したまま無言だった。しばらく間を置いて僧は、上人の墓をご覧になりませんかと静かに尋ねた。
広重はうなずいて案内に従い、寺の側を通って聳え立つ杉並木の根本の急な坂道を登った。琉球の王子の墓の側を通りぬけ、寺の代々の住職の墓地に着いた。僧ははげ落ちて苔が生えた最初の一番古い墓石を指さした。それは蛸の形につくられていた。
広重はうなずいて案内に従い、寺の側を通って聳え立つ杉並木の根本の急な坂道を登った。琉球の王子の墓の側を通りぬけ、寺の代々の住職の墓地に着いた。僧ははげ落ちて苔が生えた最初の一番古い墓石を指さした。それは蛸の形につくられていた。
琉球からの長旅
琉球使節の江戸参府は江戸上り(えどのぼり)と呼ばれていました。将軍が新しく変わった時には、慶賀使、琉球王が新しく変わった時には謝恩使と言われ、全部で18回あったそうです。
琉球を出てから、薩摩~江戸、行事を終えて薩摩~琉球の往復は、4,000キロを越え、約1年に及ぶ旅でした。
その折にこの扁額、『永世孝享(えいせこうきょう)』と書いてあります、この扁額を寄進していったと言われています。
その『永世(えいせ)』っていうのは「具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)の供養をずっと続けますよ。」っていう意味らしいですね。
『孝享(こうきょう)』っていうのはちょっと難しいんですけど、「お墓の清掃とか草取りとかって、線香をあげるとかって」ありますよね。しかし、自分達ではそういいことは事実上できません。ですから、「お墓のお守りをちょっとお願いしますよ。」っていうそんなような意味らしいですよ。」
その『永世(えいせ)』っていうのは「具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)の供養をずっと続けますよ。」っていう意味らしいですね。
『孝享(こうきょう)』っていうのはちょっと難しいんですけど、「お墓の清掃とか草取りとかって、線香をあげるとかって」ありますよね。しかし、自分達ではそういいことは事実上できません。ですから、「お墓のお守りをちょっとお願いしますよ。」っていうそんなような意味らしいですよ。」
「今、そのお墓というのは、この境内にあるんですか。」
「ええ、ちょっと高いところにあるんですね。
というのは、あの家康公の命によって故郷が見えるようにということで、当時の清見寺の墓地の一番高いところに造ったのです。
もちろん、実際には琉球が見えるわけではないんですけど、そんな配慮もあったんではないかと思います。
というのは、あの家康公の命によって故郷が見えるようにということで、当時の清見寺の墓地の一番高いところに造ったのです。
もちろん、実際には琉球が見えるわけではないんですけど、そんな配慮もあったんではないかと思います。
それから、具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)が亡くなった慶長15年、西暦1610年から400年経った2010年がちょうど400年遠忌(おんき)っていう年になります。
この400年遠忌(おんき)の具志頭王子(ぐしちゃんおおじ)の供養をするために、沖縄県から130人の大部隊が出てきてくれました。そして、この清見寺に琉球に伝わる立派な舞踊(ぶよう)を奉納していってくれました。
写真は、琉球舞踊
ですからこのお寺さんっていうのはただ単に古いだけじゃないのです。名立たる武将ですとか、朝鮮や琉球国王の名代(みょうだい)としての偉い方が来るわけであります。このお寺は、そういう方々をお迎えする迎賓館の役目を果たしてきました。また、そういう方々に対応できる住職さんもおいでになったのです。この清見寺は、なかなか立派なお寺だということになるかなって思います。」