5.NHK人間講座『朝鮮通信使』の解説(上)
第1回 室町時代の通信使
古代東アジアでは「中華思想」が存在しておりました。中華とは徳化がいきわたっている地域であり中国の中心部であります。これに対して、周辺は「夷狄(いてき)」と呼ばれておりました。夷狄の内、朝貢をなす夷狄は衛星国として承認されておりました。これを冊封(さくほう)体制と呼びます。
さて、室町時代に入ると中国では明朝が成立し、朝鮮では李氏朝鮮が成立します。室町時代の三代目将軍足利義満は、中国に上奏文を出し『日本国王』として承認され、冊封体制下に入りました。
この結果、明国だけでなく朝鮮国とも新たな交隣関係が作り上げられました。通信使の誕生であります。通信とは、信(よしみ)を通じると意味であり、単なる情報の伝達の意味ではありません。
日本国と朝鮮国との善隣友好関係は秀吉が登場するまで続いたのです。
第2回 侵略の傷跡と国交回復まで
秀吉は明国征服の野望を持ち、朝鮮侵略を敢行いたします。この戦争は日本では『文禄・慶長の役(1592~1597)』と呼ばれておりますが、朝鮮では『仁辰倭乱』と呼ばれ日本に対する憎悪がこめられております。
この戦争で甚大な被害を受けたのが、対馬であります。対馬は、この開戦で先鋒を命じられ、16歳から53歳までの男子は根こそぎ動員したそうです。働き手を失った農村は疲弊しましたが、朝鮮貿易がなくなったことは致命的な出来事だったのです。日本軍の全面撤退のあとの慶長4年(1599)には、いち早く朝鮮に使者を送り、慶長5年(1600)には朝鮮に被虜人を2月に160名、4月に300名、送っております。被虜人とは民間人で囚われた人であります。
朝鮮側としては対日講和は急ぐ必要はありませんでしたが、数万人の被虜人の送還は急がれておりました。そこで、朝鮮は民間人の松雲(ソンウン)大師を派遣し、対馬藩の重臣とともに徳川家康に面会させ、朝鮮外交再開の確証を得ます。
第3回 被慮人の送還と初期三回の使節
秀吉の朝鮮侵略によって、数万人といわれる非戦闘員である被虜人が生まれました。
被虜人の一人に、朝鮮の儒学者の姜沆(カンハン)がおりました。姜沆は、僧籍であった藤原惺窩(せいか)に朝鮮朱子学を伝授しました。その影響で、儒学者になった惺窩(せいか)は、その教えを弟子の林羅山に伝えました。林羅山は、徳川幕藩体制の基礎固めをした儒学者であります。250年余り続いた徳川の幕藩体制を支える儒学の骨格をなしたのが、この林家史学であります。なお、姜沆(カンハン)は慶長5年(1600)に帰国し、日本事情を伝えました。
姜沆(カンハン)のように自力で帰国できた人は少数で、1回~3回までの朝鮮通信使(回答兼刷還使)の目的は被虜人の帰国だったのです。ところが、刷還使の努力にもかかわらず、帰国できたのは全部で2千人~3千人でありました。被虜人の定住化が進んでいたからであります。
第4回 対馬の苦悩~偽国書事件と通信使の復活
日本と朝鮮の国交回復が早期に再開された裏には、対馬藩の国書偽造があったのです。この国書偽造は、『家康側が先に謝った』とされる『先為国書』の偽造から始まり、日本国と朝鮮国が友好関係を保つために、偽造に偽造を重ねたのです。
この国書偽造は少なくとも朝鮮側は気付いていたようですが、日本側が気付いていたかどうかは議論の分かれるところのようです。
対馬による国書偽造は、柳川 調興( しげおき、1603 -1684)のチクリにより暴露されます。柳川氏は対朝鮮外交の実務を担い、江戸幕府からも重視されておりました。調興は、幕府直臣であるかのような待遇を受けており、ついに、藩主・宗義成と対立して、直臣の旗本となろうとしたのです。
徳川家光直々の裁判の結果、実行犯の家臣は死刑、柳川調興は津軽(弘前)に流刑となります。これに対して、藩主・宗義成は知らなかったのでお咎めなしの判決となりました。なお、柳川調興は弘前で文化人として好待遇を受けたそうです。
この柳川事件の後、朝鮮外交について幕府内部で協議した結果、家光の呼称を『日本国源某』とし年号を日本年号としました。朝鮮側も明国の年号使用をやめ、使節団の名称も『通信使』となったのです。この背景には、対馬藩の外交努力があったのです。
この事件終了後の最初の『朝鮮通信使』使節一行に、家光は久能山から日光に移した家康廟(びょう)・東照宮への遊覧招待をいたします。ところが、朝鮮使節一行は前例がないとか日程に余裕がないとの理由で拒否してしまったのです。
この一件は政治問題化しますが、対馬藩主・宗義成の取計らいで日光遊覧が実現いたします。朝鮮通信使が日本を訪問したのは12回ですが、そのうち3回日光を訪れています。
1636年(寛永13年) 第4回 徳川家康の廟を参詣
1643年(寛永20年) 第5回 日光東照宮落慶祝賀として訪問
1655年(明暦元年) 第6回 徳川家康の廟とともに、徳川家光の大猷院廟も参詣
朝鮮通信使が日光を訪問することは、幕藩体制にとって日光の重要性を内外に表明する意味があったといいます。