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 2.清見寺の境内の中に入って
(清水歴史探訪より)
裏門のすぐ隣には、総門に続く石段があります。
「ここを総門って言いますけれども、ここにあの『東海名區』(とうかいめいく)という扁額(へんがく)があります。
 この扁額は、朝鮮通信使の方が墨で書かれたものを扁額化したものなんです。朝鮮通信使がここのお寺に寄った時に、書かれたものです。東海とは東海道の意味ではなく日本の異称です。『東海名區』(とうかいめいく)とは、「日本の景色のよいところ」という意味でしょうか。当時の清見寺は、伊豆半島から三保松原まで見渡せることができる景勝の地だったのです。
この浮世絵には、清見寺と三保の松原が富士の前景として描かれています。
今は、ちょっと見づらいのですが、そこに火の見櫓(やぐら)があるのですが、そこより先から海が始まっていたのです。」
「もうここから100メートルもないところの。」
「ないですね、100メートルもないですね。ですからその当時は、すぐ海が始まって国道1号のバイパスや港湾施設なんかもありませんから、三保の松原がここからざってと見渡せたわけですね。」
「はい。美しかったでしょうね。」
『清見寺から見た三保』となっておりますが、実際には近くの興津海岸の写真のようです。遠くに見えるのが三保半島です。
「それから、先ほどの『清見ヶ関寺(きよみがせきじ)と同じ様に、この前の海は『清見潟(きよみがた)』と呼ばれていたのです。この海岸は、大きな岩礁のある海でしたので、非常に絵になる海岸だったようです。
 東海道を行き来する文人墨客(ぶんじんぼっかく)が、俳句を作ったり和歌読んだり、絵を描いたり格好の場所だったのです。ですから、ここは東海道の有名なところだったということになります。」
「ということは、軍事的にも重要な場所だっただけでなく、観光名所でもあったわけですね。」
「そうですね。では、『東海名區』というこの総門を潜って、境内へ参りましょうか。」
「はい。」
「石段を上がって行って古い総門の上に『東海名區』と書かれて扁額があるようです。そこに行ってみましょう。」
「はい、石段を登ってみましょう。」
「さあ、石段を上がって行きますと普通ならこのままお寺に入って行くかなと思うところで東海道線ですね。」
「そうですね。明治22年になりますけれども、この東海道本線が、御殿場線経由で静岡まで繋がったんですね。で、お寺の境内を、東海道本線が敷設されたということになりました。全国的にも、こんなことは少ないと思います。ですから、『珍しいお寺ですね。』と言われます。
 
で今ですね、今お山が見えますでしょう。」
「はい。目の前のお山ですね。」
「実は、このお山の中に『清見寺トンネル』という名称のトンネルがあって、東名高速道、新幹線が走っております。」
「トンネルが、走っているわけですか。」
「そうなんです。本当に昔も今も、この興津のこの辺りはですね、本当に交通の要衝(ようしょう)なのです。ですから、なんか事故があると日本が半分くらい止まってしまうということも、起きるのです。」
「そうなんですか。」
 

 線路の上を橋で越えると、大きな門が見えてきます。
山門(さんもん)について
 慶安4年(1651)に建設された四脚門(しきゃくもん)という形式の山門は、市内で最も古い江戸時代の山門と言われています。この門には扁額が掲げられていませんが、奥の仏殿には、明歴元年(1655)の朝鮮通信使の正使趙珩(ちょひょん)(翠屏(すいへい))が雄大に揮毫(きごう)した「興国」を見ることができます。本来であれば「清見寺」とするところですが、「清見興国禅寺」という正式な寺名を「興国」の二字で表しました。
 度重なる戦火にまみえ、時々に荒廃(こうはい)した寺は、多くの人々に支えられることで復興を果たしてきました。寺は自らの歴史を語りつぐために、所蔵する文化・文化財の保存に努めました。
清見興国塾発行
「じゃあいよいよ、山門に入ります。」
「はい。」
「それでですね、昔はこのお寺からは三保の松原が全景見えたわけですけれど、今では全景は見られません。山門の正面の左側の位置、この位置が三保の松原が一番長く見える位置です。ここです。」
「はい。残念ながら、ちょっとお天気が悪いので煙ってしまっていますけれども、なんとか見えますね。」
「そうですね。残念ながらきれいには見えませんね。」
「かろうじて見えてるのが、三保の松原なんですね。」
「はい。国道1号のバイパスが邪魔したり手前に大きなビルができたりして、昔の海岸線は見ることができませんね。」
「そうですね。でも昔はもう目の前が波打ち際でそこから一面の海が広がって、その向こうに三保の松原が見えたのですね。」
「そうですね。もうだから絶景だったと思いますね。ですから、朝鮮通信使が『東海名區』と表現したのでしょうね。」
「はい。」
「それでは山門を潜って、お寺の中へ入ってきます。」
清見寺の鐘楼の横から見た三保半島です。
 「ここから見ると、このお寺さんが広く見えると思いますが、おおよそ6000坪境内があるのです。
それから建物はですね、このお寺さんは多くの建築物を擁する七堂伽藍(しちどうがらん)と言われる大寺院であります。ですから、こうした連立した建て方になっております。
 
 まず、正面は、『仏殿』と言いまして、このお寺で1番大事な建物になります。この『仏殿』は、本尊さんを安置しておくとこであり、お坊さんたちが修行する場所であります。
 こちらの本尊さんは釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)、仏様の代表のお釈迦様であります。
仏殿について 
 禅宗では、僧侶が修行する建物を仏殿と呼んでいます。清見寺仏殿は、床一面に瓦を敷いた一階建ての大きな建物で、天保15年(1844)に再建されました。
 江戸時代の後半に活躍した臨済宗(りんざいしゅう)の高僧白隠(はくいん)は、全国を行脚(あんぎゃ)し広く布教に努め、清見寺とも深い関わりがありました。庵原の山梨治重も白隠の教えに帰依(きえ)したひとりで、宗教者として治重に寄せた白隠の賛辞を、息子の山梨惟亮が石製の五重塔に刻んで、安永5年(1776)に前庭に建てました。
 仏殿の西側斜面には、天明の飢饉の頃作られた五百羅漢像が据えられています。また、明治元年(1868)に咸臨丸(かんりんまる)が清水港で攻撃された時の死者を悼んで、明治20年(1887)に榎本武揚(たけあき)が石碑を正面東側に建立しました。碑には「人の食を食(は)む者は、人の事に死す(恩義を受けた人のためには死ぬこともできる)」と刻んでいます。
 周囲には高山樗牛(ちょぎゅう)や与謝野晶子をはじめ、清見寺を訪れた文人の文学碑も並んでいます。
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 次にこちらはですね、まあ一般的には『本堂』って言いますけど、禅宗では『方丈(ほうじょう)』って言います。和尚さんのことを方丈さんなんて言いますでしょう。」
「はい。そう言えばそうですね。」
「お寺の多くは、仏殿と本堂とは1つですが清見寺では別々にあるのです。」
方丈(ほうじょう)とは----------国語辞典で調べてみました。
 1丈 (約 3m) 四方の部屋の意で,禅宗寺院の住持や長老の居室をさす。『維摩経』に,維摩居士の室が1丈四方の広さであったという故事に由来する。転じて住職をも意味する。さらに一般的に師の尊称として用いられた。
方丈について 
 130畳敷きの大きな方丈は、文政11年(1828)に建立され、屋根は当時まだ珍しい桟瓦(さんがわら)で葺(ふ)かれました。
 遠く伊豆半島の山々を望み、陽光に映えた清見潟に三保松原が浮かんでいます。左手に鐘楼は、正和(しょうわ)3年銘の梵鐘(ぼんしょう)(静岡県指定文化財)を収め、寛永20年(1643)の朝鮮通信使の一員であった朴安期(パクアンキ)(螺山(らざん))が記した扁額「瓊瑶(けいよう)世界」を掲げています。さらに手前には、これも朝鮮国で有名になった「臥龍梅(がりょうばい)」が遅咲きの花を開いています。
 扁額「瓊瑶(けいよう)世界」の「瓊(けい)」も「瑶(よう)」も、いとおしい玉の意味で、二つの玉とは日本国と朝鮮国を表わし、清見寺こそが両国の出会う世界(場所)であると説いています。
 江戸時代の東海道を往来した海外の使節は、数多くの文物を寺に残しています。方丈の壁面に懸けられた数多くの懸板が、交流の歴史を物語っています。
 家康が自ら饗応(きょうおう)した慶長12年(1607)の第一回朝鮮通信使も、清見寺を賞賛して漢詩を詠み扁額を残しました。それ以降の平和な200年の間に日本を訪れた通信使も、第1回目の通信使に倣って漢詩を作り、清見寺を称(たた)えています。
 また、琉球の王子が眠る清見寺を、寛政2年(1790)に訪れた琉球使節の正使、宜野湾(ぎのわん)王子尚容(しょうよう)朝陽が、大型の扁額「永世孝享(えいせいこうきょう)」を残しています。
 隣には、晩年坐漁荘(ざぎょそう)に暮らした元老西園寺公望(さいおんじきんもち)の扁額「長吟対白雲」も懸けられています。
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「そうです。それからあの、緑っぽい屋根が見えますけど、ここは大玄関(おおげんかん)って言う建物で、家康公の3番目のお姫様が、寄進してくれたっていう建物で、天井は血天井(ちてんじょう)っていうことで有名です。梶原景時(かじわらかげとき)さんのですね、戦いの跡が記録されているっていう血染めの板が天井に貼ってあります。」
大玄関について
 徳川家康の三女振姫(ふりひめ)が、元和3年(1617)に方丈に附属する唐破風(からはふ)の大玄関を寄進しました。その天井は「血(ち)天井」と呼ばれています。これと時を同じくして振姫は、寺の本尊(ほんぞん)である釈迦如来坐像も寄進しています。
 平成6年(1994)10月に、広島県福山市鞆福禅寺対潮楼(ともふくぜんじたいちょうろう)と岡山県瀬戸内市本蓮寺(ほんれんじ)と共に、清見寺の境内全域が国指定史跡「朝鮮通信使遺跡 興津清見寺境内」として指定されました。寺の大半の建物は、幕末の時期に建築されたものですが、その中でも大玄関と山門だけは、実際に朝鮮通信使一行が足を踏み入れた建物です。
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「次に、ガラス張りの建物があります。」
「はい。」
「これは三面ガラス張りになっていますが、ここは『潮音閣(ちょうおんかく)』と呼ばれています。潮(うしお)の音の屋形(やかた)です。
潮音閣 について
 清見寺の門前は、主要幹線の東海道が通り、急峻(きゅうしゅん)な山が迫る場所です。明治政府は、新たに鉄道を敷設するに当たり、寺の境内を通すことにしました。明治22年(1889)7月に東海道線全線が開通し、翌8月には、皇太子であった大正天皇が海水浴と避暑の目的で、清見寺に滞在します。寺は、そのために庫裡(くり)の二階に潮音閣を増築しました。当初から海に面した三方にガラス窓を設(しつら)えて、三保松原を臨んだ別荘風の造りを採用しました。
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 それから手前にあるのが、鐘撞堂(かねつきどう)、鐘楼(しょうろう)ですね。この鐘は今からおおよそ700年前、鎌倉時代の終わり頃にですね、鋳造(ちゅうぞう)されたという非常に音のいい名鐘(めいしょう)でございまして、今、静岡県の文化財っていうことになってますね。」
鐘楼について
 石口にて3.7m四方、文久3年(1863)の改築にして、麓鐘は正和3年(1314)の鋳造で、天正18年(1590)4月豊臣秀吉公伊豆菲山城攻伐の際、陣中に於いて使用したものであると云います。又高山樗牛の「清見寺の鐘声」と云ふ名文は、この鐘声を聞いて作ったのであります。
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「朝鮮通信使の皆さんも、この景色を見たわけでしょうか。」
「はい。見たわけです。この山門は朝鮮通信使がとおっています。それからその大玄関、ここもとおっています。ということで朝鮮通信使がとおったという道も、今、ずっととおってきたのですよ。
 次に、仏殿の真正面に『興國(こうこく)』という扁額がありますけども、これもやっぱり朝鮮通信使の正使っていう一番偉い方が墨で書いたものを扁額化したものですね。」
「右から書いてありますね。」
「これはですね正確にはこのお寺さんっていうのは、巨鼇山清見興国禅寺(こごうざんせいけんこうこくぜんじ)というのがフルネームです。」
「はい。」
 
「その清見興國、『興國(こうこく)』の2字をですね、書いてくれたっていうことになりますね。」
「はい、まさに国を興すという。」
「ええ、そうですね。やっぱりこの清見寺がですね、世の中を立派にしていくという願いもあったんじゃないかなと思います。このお寺の巨鼇山清見興国禅寺(こごうざんせいけんこうこくぜんじ)の興国(こうこく)の字の言葉の通りですね。はい。」
 七堂伽藍の立ち並ぶ境内には、由緒のある木々も植えられています。
 
 「これはあの駿府公園(=駿府城)からですね、接ぎ木したものを持ってきて移植したと言われている家康公のみかんですね。あのお手植えのみかんのわかれですね。わかれ、即ち、子どもですね。」
 「では、徳川家とも由来が、かなりあるようですね。」
 「はい、その通りです。こちらのお寺は、家康さんが幼少の時代、松平の竹千代と呼ばれた頃、勉強したお寺でもあります。それから、ずっと縁がありまして、徳川時代265年間、徳川さんの庇護によってこのお寺が存立できたのです。
 ですから、このお寺の中には徳川さんから頂いたものとか寄進されたものとか、そういうものがたくさん残っております。
 この時は夏でしたので、梅が咲いておりませんでした。
 龍臥して 法の教えを聞くほどに 梅花開く身となりにけり(与謝野晶子)
 WEBより
 ここにも臥龍梅(がりょうばい)っていう梅が、梅の木が3本ばかりあります。これは家康公が接木(つぎき)したとか、あるいはお手植えしたとかいう伝説がある梅の木なのです。家康公が直接関わった臥龍梅っていう梅であります。」
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税理士法人森田いそべ会計
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静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
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■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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