1.清見寺を訪ねて
清見寺を訪ねる前に、スタットラーの『東海道の宿 水口屋ものがたり』に清見寺についての記述を紹介いたします。
名刹・清見寺
町のずっとはずれの、そこだけでも急な斜面になっているところの上で、興津の町を見下し、そこで起っていることが手にとるように見られるのが清見寺である。
町のずっとはずれの、そこだけでも急な斜面になっているところの上で、興津の町を見下し、そこで起っていることが手にとるように見られるのが清見寺である。
これはこの地方の有名な寺の一つで、水口屋に長く泊っている人は必ずそれを知るようになる。この寺で偉大な家康が少年の日々を学にいそしみ、この聳え立つ屋根の下で学んだ術が日本を統一させることになったのである。また老いた西園寺公が海辺沿いの小さな家から登って来て、この境内で日向ぼっこを、あるいは月見をしながら、駿河湾の向うに三保の松原が富士の方に延びているのを望んだものである。
この名刹(メイサツ)は何度となく焼け、そのたび毎にその斜面の上に新しい装いで再建された。長い石段を登って来る人を見下しているようである。
この名刹(メイサツ)は何度となく焼け、そのたび毎にその斜面の上に新しい装いで再建された。長い石段を登って来る人を見下しているようである。
今日では寺は灰色に静まりかえっている。歴史がそれを蔽い、この国の激しい情熱があたりにみなぎっている。日本の寺はかつて一度もいかなる時代の政権争いにも超然としていることはなかった。清見寺などはそのもっとも代表的なものであった。
斎藤襄治著16ページより
今回の『歴史散策』は、興津の清見寺であります。清見寺は2度目となりますが、見るところは豊富です。まずは、平成27年3月26日に清見興国塾発行の資料から、清見寺の資料を移しました。
家康は、400年前に駿府城で亡くなりますが、師の雪斎が清見寺の住職を兼務していたことから今川氏の人質であった少年の頃にしばしば訪れており、その景勝地としての価値を充分に見知っていました。それゆえに、朝鮮国から使節団を招いて新たな外交を開始するに当たり、清見寺を選んでもてなすことを命じました。
それでは、多少年代が前後することもありますが、見学順路に従って建築を巡り、清見寺の歴史をみることにしましょう。
それでは、多少年代が前後することもありますが、見学順路に従って建築を巡り、清見寺の歴史をみることにしましょう。
(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第2土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
旧東海道を江尻宿から東へ向かうと、海と山がぐっと近づいたところに、清見寺(せいけんじ)があります。
ボランティアガイドとして活動している伏見鑛作(ふしみこうさく)さんに、あいにくの雨の中、ご案内いただきました。
「おはようございます。今日はあいにくのお天気になってしまいましたけど。」
「はい。」
「じゃあ今日はですね、清見寺の紹介っていうことで、まず生い立ちから少しお話しさせていただきたいと思います。今現場でですね、この清見ヶ関跡(きよみがせきあと)というところを、今見ていただいていますけど。」
裏 門 へ の 道
「今、山門(さんもん)の前なんですね。」
「ええ、裏門の前です。」
「ここが裏門ですか。」
「裏門です。はい。」
「はい。」
「で、ここにですね大きな石が2個、ここにあります。これが関所の建物の柱の土台、これを礎石(そせき)って言います。これがですね、昔ここに関所があったっていう証拠になる、ひとつのものなんです。
「ええ、裏門の前です。」
「ここが裏門ですか。」
「裏門です。はい。」
「はい。」
「で、ここにですね大きな石が2個、ここにあります。これが関所の建物の柱の土台、これを礎石(そせき)って言います。これがですね、昔ここに関所があったっていう証拠になる、ひとつのものなんです。
清見ヶ関の礎石の跡
で昔はですね、海がすぐそばまできていまして、山のへりがこうずっとこう下りてきてきましてね、狭い入り口のところを東海道が走っていました。
ですから、ここのところに蝦夷(えぞ)の侵入を防ぐために関所を築いたのです。おおよそ今から1300年前に天武天皇っていう方の勅願で、ですね、ここへ関所を造ったのです。
その時、関所をお守りするということで御堂(おどう)を一緒に造りました。その御堂には仏像等を置いて関所の安寧(あんねい)を願ったのです。それがこの清見寺の元になったということです。」
ですから、ここのところに蝦夷(えぞ)の侵入を防ぐために関所を築いたのです。おおよそ今から1300年前に天武天皇っていう方の勅願で、ですね、ここへ関所を造ったのです。
その時、関所をお守りするということで御堂(おどう)を一緒に造りました。その御堂には仏像等を置いて関所の安寧(あんねい)を願ったのです。それがこの清見寺の元になったということです。」
「ああ、そうなんですか。ところで、今もこの目の前は東海道で、車がたくさん走ってますね。」
「走ってますね、はい。」
「さらに、後ろにはJR東海道線の電車が走ってます。この場所は、昔から交通の要衝(ようしょう)だったわけですか?」
「そうですね、ここは日本の大動脈国道1号ですので、やっぱり文化とか物流とか、そういうことじゃ日本で1番大事な所というところになりますね。」
「はい。そうなんですね。」
「走ってますね、はい。」
「さらに、後ろにはJR東海道線の電車が走ってます。この場所は、昔から交通の要衝(ようしょう)だったわけですか?」
「そうですね、ここは日本の大動脈国道1号ですので、やっぱり文化とか物流とか、そういうことじゃ日本で1番大事な所というところになりますね。」
「はい。そうなんですね。」
「ここの場所にですね、この石に見合うほど大きな柱のある建物があったのです。こんな大きな礎石に見合う相当大きな堅固な建物だったと思います。そのような大きな建物を築いたのは、天武天皇の時代の朝廷に従わない東側の勢力がどうやらこの辺まであったようなんです。」
「このあたりが朝廷側と反対勢力の境界線だったのですね。」
「このあたりが朝廷側と反対勢力の境界線だったのですね。」
「そうです。まだ平定の済んでない東国の、蝦夷を防ぐには格好の場所だったのです。この地形の場所に、関所を造って、東からの侵入を防いだのです。」
「ここを抑えてしまえば大丈夫だったのですね。」
「ということですね。」
「重要な場所だったわけですね。」
「でも、実際には2、3回破られたこともあるらしいんです。しかし、結果的には撃退しております。
この重要な場所に造られた関所の名前は、『清見ヶ関(きよみがせき)』と言います。この名前の由来は、当時の天武天皇のお住まいの地が『浄御原(きよみはら)』と呼ばれておりましたので、天皇様のお住まいの地名を頂きまして、『清見ヶ関(きよみがせき)』となったのです。
「ここを抑えてしまえば大丈夫だったのですね。」
「ということですね。」
「重要な場所だったわけですね。」
「でも、実際には2、3回破られたこともあるらしいんです。しかし、結果的には撃退しております。
この重要な場所に造られた関所の名前は、『清見ヶ関(きよみがせき)』と言います。この名前の由来は、当時の天武天皇のお住まいの地が『浄御原(きよみはら)』と呼ばれておりましたので、天皇様のお住まいの地名を頂きまして、『清見ヶ関(きよみがせき)』となったのです。
東国の蝦夷とは、アイヌ人?との論争があります。
この清見ヶ関(きよみがせき)に造られたお堂は、段々お寺化してきます。『清見ヶ関寺(きよみがせきじ)』と呼ばれるようになりました。さらに、お寺は段々音読、音読みに変わっていきまして『清見寺(きよみでら)』から『清見寺(せいけんじ)』に変化していったということでございます。
『清見寺(せいけんじ)』は『清見ヶ関(きよみがせき)』からスタートしたのであります。」
「では、この礎石がまず第1歩だったわけなんですね。」
「そうですね、この礎石が古い時代の清見寺(せいけんじ)・清見ヶ関(きよみがせき)のルーツとなります。」
「そう聞くと、すごい価値がありますね。さて、ここからお寺の方へ入ってきますとどういう風になってくんでしょうか。」
「はい、それではですね、あそこにある総門、山門、裏門と3つの門になるんですけれども、こちらは裏門側です。じゃあ総門から行きましょうか。」
「はい。」
『清見寺(せいけんじ)』は『清見ヶ関(きよみがせき)』からスタートしたのであります。」
「では、この礎石がまず第1歩だったわけなんですね。」
「そうですね、この礎石が古い時代の清見寺(せいけんじ)・清見ヶ関(きよみがせき)のルーツとなります。」
「そう聞くと、すごい価値がありますね。さて、ここからお寺の方へ入ってきますとどういう風になってくんでしょうか。」
「はい、それではですね、あそこにある総門、山門、裏門と3つの門になるんですけれども、こちらは裏門側です。じゃあ総門から行きましょうか。」
「はい。」