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 5.終わりに
(清水歴史探訪より)
 現在、1号墳と4号墳が保存されている神明山古墳ですが、その他の古墳はどこにあったのでしょうか。
 「さてここに、もうひとつ図面があるんですけれども。」
 「はい。1号墳、4号墳のあった場所、先ほど私達が歩いてきた場所の図面って言うのを展示しています。」
 「神社にまっすぐ入ってきますと右手が4号墳、神社のほぼ真裏が1号墳ということで1号墳はかなり大きいのが分かりますね。」
 「そうですね。全長が約70m、69.2mって言われていますけれども、前方後円墳ですのでかなり大きい物ですね。」
 「この古墳が最初に発見された時というのはどんな状況だったんですか。」
 「そうですね。実際に4号墳が発見されたのはある会社の、社員用のクラブハウスを作るということで計画がされたところで発見されたっていうことのようです。」
 「2号墳、3号墳というのはもう既に失われているということだったんですが、現状その場所というのは今、何があるんでしょうか。」
バス
 JR清水駅「港南厚生病院」線(清水厚生病院前・沖電気方面) 「神明前」下車
 
 専用駐車場はありません
 
見学
 1号墳…神明宮境内にあり、墳丘は見学可能
 4号墳…横穴式石室が露出公開されています(見学自由)
 
出土遺物
 埋蔵文化財センターにて整理・保管されています
 「はい、失われているのは2号墳、3号墳、5号墳になります。3号墳がですね、道路が通っています。」
 「4車線の静清バイパスに繋がる広い道路ですね。」
 「そうですね。その道路の東側のルートになりますけれども、まさしく3号墳がありました。2号墳はもう宅地化されています。で、5号墳も開発に伴ってですね、消滅しているという形になります。」

 神明山古墳の周辺は古代から多くの人々が住み着き、この地域でも重要な場所となっていたようです。太古の歴史を秘めた古墳は、神社の鎮守の森とひとつになって、今もこの地域を見守っているようです。
 
 お話は、静岡市埋蔵文化財センターの菊田宗(きくたはじめ)さんでした。
 
 静岡市埋蔵文化財センターは、三保山の手線のバスで「横砂」下車、徒歩およそ10分です。入館は無料で、土日祝日と年末年始はお休みですが、毎月第1、第3日曜日はオープンしています。
 
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~

 お相手は、石井秀幸でした。
 
 この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いの税理士法人いそべ会計がお送りしました。税理士法人いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。
 平成28年6月15日に静岡埋蔵文化財センターで、菊田さんが勉強会を開催されました。その時の資料を掲載いたします。
 
神明山古墳群の出土遺物について

静岡市観光交流文化局 文化財課 主査 菊田 宗
はじめに
 神明山古墳群は、庵原川西岸の標高約37mを測る独立丘陵上から丘陵南東部裾にかけて分布しています。明治初年頃、畑耕作中に偶然銅鏡等が発見され、神明社東古墳(神明山2号墳)の存在が知られていました。昭和35年(1960)に神明山1号の測量調査と物理探査が行われ全長70mの前方後円墳と認定され、以後現在まで計5基の古墳が確認されています。
 
各古墳の概要

神明山1号墳
 神明神社背後の丘陵最頂部に位置する全長70mの前方後円墳です。昭和42年(1967)、県道嶺神明線の建設工事に伴い、前方部前端の周溝外縁部の調査と神明山3号墳・上嶺遺跡の発掘調査が併せて実施されました。昭和52年(1977)、1号墳北側の小規模な児童公園設置に伴い確認調査が実施されました。
 平成10年(1998)、静岡県教育委員会による静岡県前方後円墳発掘調査等事業の一環として、静岡大学人文学部考古学研究室による墳丘測量と墳裾部の確認調査が実施されました。さらに翌春には、同研究室による括れ(くびれ)部から前方部にかけての補足調査が行われました。静岡大学による一連の調査によって、これまで中期前葉と考えられていた1号墳は、前方部が撥(ばち)形に開く大和の箸墓古墳の四分の一類似形墳である可能性が高いことが明らかとなりました。また、周溝内から出土した土師器(はじき)は、古墳時代前期の古式土師器であることから、古墳の築造年代は、古墳時代前期前半まで遡る可能性が高くなりました。

神明山2号墳
 (築山古墳・神明山東古墳)丘陵裾部の平坦地である神明神社参道の東約50mの地点に位置していました。『静岡縣史』(1930)によれば、明治9年頃方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)1面と碧玉製管玉(へきぎょくせいくだだま)5個・直刀が出土し、当時東西22m、南北27mの墳丘盛土が残存していたと記されています。その後、静岡大学の測量調査等で方墳と確認されました。

神明山3号墳
 昭和34年、畑耕作中に須恵器が出土し、昭和42年に県道嶺神明線の道路建設工事に伴い発掘調査実施が実施されました。石室は、南側を入口とする横穴式で、奥壁に大きな鏡石が2個と両側壁に2段~3段の積み石が残存していました。床は奥壁から手前に3mほどは径50㎝~1mの扁平石(へんぺいせき)を敷いた棺座が設けられており、入口寄りは円礫(えんれき)が敷き詰められていました。石室の大きさは、高さ約1.8m、幅約1.3m、長さ7~8mであったと推定されています。発見時に出土したとされる須恵器の所在は不明ですが、この発掘調査で刀子(とうす)・鉄鏃(てつぞく)・小玉などが出土しました。古墳の築造時期は、石室の形態や出土遺物から古墳時代後期後半と考えられます。

神明山4号墳
 昭和40年(1965)、神明山1号墳の後円部北東側斜面で、東亜燃料株式会社の社員用クラブハウス及び体育館建設に伴い横穴式石室が発見され緊急の発掘調査が実施されました。その後、平成13年と平成14年に墳丘の確認調査が行われ、周溝と墳丘盛土の残存が確認されました。
 これまでの発掘成果をまとめると、神明山4号墳は、径約19mの円墳で周溝がほぼ全周していたと考えられます。内部主体は、南側に開口する横穴式石室で、玄門石(間仕切石)によって羨道(せんどう)と玄室(げんしつ)が区別されています。石室の全長は約10m、玄室は長さ約6.8m、最長幅1.8m、高さ1.6mを測ります。羨道は長さ3.2m、幅約1.3mを測ります。天井石は大型ですが、玄室西側がずれ落ちていました。床は、奥壁から手前3.5mほどまで小川原石を敷き詰めた礫床が認められましたが、そこから羨道部付近までは礫床はありませんでした。
 副葬品は、奥壁寄りの礫床部分に集中していました。太刀(たち)、鉄鏃(てつぞく)、挂甲小札(けいこうこざね)、冑(かぶと)、耳環(じかん)、勾玉(まがたま)、小玉類(こだまるい)、轡(くつわ)、雲珠(うず)、馬鈴(ばれい)などの馬具(ばぐ)、須恵器(すえき)などが出土しました。特に、飾大刀として金銅製圭頭柄頭(こんどうせいけいとうつかがしら)・金銅製環頭柄頭(こんどうせいかんとうつかがしら)・鉄製銀象嵌方頭柄頭(てつせいぎんぞうがんほうとうつかがしら)や雲珠・辻金具・精巧で大型の馬鈴は、県内でも類例を見ない逸品であり被葬者の性格を表すものとして注目されます。
 静岡地域では、賤機山古墳(しずはたやまこふん)を筆頭に、有度山西麓(うどさんせいろく)に分布する小鹿山ノ神古墳、宮川1号墳、アサオサン古墳など有力な後期古墳に匹敵する規模を持っています。当古墳の被葬者は、当時庵原地域で特別な地位にあった人物と推測されます。

神明山5号墳
 平成17年、神明山丘陵東端部の開発に伴い発掘調査が実施され新たに発見された古墳です。東端部が削られていましたが、方墳又は初期前方後方型墳丘墓の可能性があります。埋蔵主体は、主軸が南東―北西を向く堅穴(たてあな)で木棺の直葬と考えられますが副葬品はありませんでした。周溝からは、古墳時代前期の古式土師器甕(こしきはじきかめ)などが出土しています。築造時期等については今後詳細な検討が必要と考えられます。
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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