7.解説・JAPANESE INN(水口屋)その1
400年の歴史を持つ『水口屋』ですが、『水口屋』を世界的に有名にしたのは、スタットラーの『Japanese Inn』であります。幸いにも、英語版と日本語版が手に入りました。
両方を見比べながら、解説にチャレンジしたいと思います。
第1章 宿への道
スタットラーは、ひたすら『水口屋』に向っております。スタットラーにとって『水口屋』は古いしきたりと礼儀正しいもっとも日本的な場所なのです。さらに、この宿は日本の歴史に深く関与しているのです。
さて、由比をでて興津までの間にさった峠があります。昔は、この峠を通らないと興津に行けなかったのです。さった峠からは富士山と駿河湾が美しく見えます。日本で最も美しい眺めがみられるのです。
さらに、有名な伝説の舞台である三保半島が見えます。三保の松原の美しさに惹かれた天女が空から舞い降りて来て水を浴びた。その時に羽衣を松の枝にかけ、漁師に盗られてしまいます。天女は舞を舞って羽衣を返してもらうという伝説であります。
さった峠には旅人の守護神・さった地蔵が祀られております。
第2章 宿のはじまり(初代・二代目)
第3章 不承不承の宿経営
東海道は戦闘準備のため整備された。清見寺の再建の急速に進められた。秀吉は、前線の司令部ができるまでこの寺に住むことになっていた。
望月は秀吉の到着を待った。秀吉は旅ややつれしているだろうと語り会っていたが、多くの部下を連れて誇らしげに馬に乗ってきた。興津の住民は圧倒され、道端にひざまずいて出迎えた。
家に帰った望月は、この派手な有り様を報告しようと思ったが、家にはこれほどまでにない客が押しかけていたのだった。
秀吉の元には、いち早く家康が拝謁(はいえつ)に来た。家康との会合とは別に、今日まで伝わっている会合がある。利休との会合である。秀吉は純金を好む人間であるが、一方ではこの質素な茶人を求めていた。
ところが、秀吉との会合に利休は遅れてきたのである。
秀吉が発っても興津の交通量は減らなかった。宿を乞われることは、あいかわらず多かった。海辺では興津の漁師たちと噂話をした。漁師たちはその日の獲物を秀吉軍に運ばれていた。
夏の終わり、北条の城が落ちた。この勝利は、興津の人々には領主の交代を意味した。家康は江戸に新しい城を築いた。駿河は秀吉軍の領将たちに分割された。
秀吉は京都に戻る途中、再び清見寺に立ち寄り、寺の印象を語り、それは巻物となった。清見寺の鐘は返されたが、僧が自ら運び鐘楼におさめられた。
秀吉はその後朝鮮に出兵したが戦いに勝利することができないまま病の床に就き死亡した。その後、家康は関ヶ原の戦いで勝利し征夷大将軍の地位に就いた。家康のいる江戸は事実上の首都となった。
大名たちは江戸に屋敷を構え、自分たちの領土と江戸の両方で生活するようになった。多くの大名が東海道を大名行列した。東海道は以前よりもにぎやかなものになった。
慶長6年(1601)、幕府は東海道の江戸~京都間に53の宿場を開くように命じた。宿場には宿屋、めし屋が集まってきた。興津は江戸から数えて17番目の宿となった。
家康は古くからの日本の習慣にしたがって隠居することになった。家康はお気に入りの駿府に引っ越してきたのである。
家康が駿府に引っ越してきてから望月の家は旅人でひどく混雑するようになってきた。望月は引き延ばしてきた家督相続と自分自身の隠居を引き延ばすことができないと感じた。ただし、望月の息子は商人の考え方で自分は武士の心が捨てられず溝があった。