3.西園寺さんと水口屋
(清水歴史探訪より)
江戸時代、脇本陣として、宿場の重要な役割を果たした水口屋には、明治維新以後、政府の重鎮たちが次々と訪れるようになりました。
西園寺さんが坐漁荘のほうに引退なされまして移り住んできますと、近衛文麿(このえふみまろ)から始まりまして、吉田茂、石橋 湛山(たんざん)さん、岸さんなんか首相クラスの方がいらしゃるようになりました
この西園寺公望に接見にみえることを、『興津詣で』、『西園寺詣で』と申しておりました。この『興津詣で』のお泊りは皆さんこの水口屋でございます。何日も何日も西園寺さんのオーケーが出るまで待機していたそうでございます。この時期、水口屋は政治の裏舞台といわれておりました。
この『静楽(せいらく)』という書は、岩倉具視さん、お札にもなりました。明治12年に、この辺一帯が焼ける大火事が発生いたしまた。残念ながら水口屋はその時一度全焼してしまいます。それを京都で知った岩倉具視さんが、『静楽』という書を届けてくださったのです。火事見舞いとして頂いた、この『静楽』の書は、水口屋の家宝になりました。」
「『従一位具視』と、と署名が入っているわけですね。」
「はい、そうですね。」
この『静楽(せいらく)』という書は、岩倉具視さん、お札にもなりました。明治12年に、この辺一帯が焼ける大火事が発生いたしまた。残念ながら水口屋はその時一度全焼してしまいます。それを京都で知った岩倉具視さんが、『静楽』という書を届けてくださったのです。火事見舞いとして頂いた、この『静楽』の書は、水口屋の家宝になりました。」
「『従一位具視』と、と署名が入っているわけですね。」
「はい、そうですね。」
「さぁ、そして、隣りにも掛軸などが続いていますが。」
「はい。こちらはこの水口屋に泊まった方々、またゆかりのある方々の書でして、杉孫七郎さん、また伊藤博文さんなんかの、著名人の書が残されております。
伊藤博文さんは井上馨さんと同じ長州藩出身ということで、昵懇(入魂)(じっこん)の仲でした。この井上馨さんが横砂に長者荘という別荘をお建てになりますと、その井上馨さんを訪ねてきました。この時のお泊りは水口屋でございまして、この書を残していかれました。
西園寺さんがこちらのほうに移り住んできますと、本当に首相クラスの方がこの水口屋にお泊りになっておりました。
「はい。こちらはこの水口屋に泊まった方々、またゆかりのある方々の書でして、杉孫七郎さん、また伊藤博文さんなんかの、著名人の書が残されております。
伊藤博文さんは井上馨さんと同じ長州藩出身ということで、昵懇(入魂)(じっこん)の仲でした。この井上馨さんが横砂に長者荘という別荘をお建てになりますと、その井上馨さんを訪ねてきました。この時のお泊りは水口屋でございまして、この書を残していかれました。
西園寺さんがこちらのほうに移り住んできますと、本当に首相クラスの方がこの水口屋にお泊りになっておりました。
杉孫七郎だけ名前を知りませんでした。長州藩士で高杉晋作の部下で井上馨とも仲が良く、枢密顧問官をしていたそうです。
政治家だけではなく、軍人さんとか、また絵描きさんなんかもお泊まりなっておりました。夏目漱石さん、志賀直哉さん、与謝野晶子さん、中村歌右衛門さん、古賀政男さん、また山田五十鈴(いすず)さんなんかもこちらのほうに来ていただいていたみたいですね。