8.解説『景行天皇と日本武尊』その3
一方、『日本書紀』は、次のように記す。
「そこから相模に進んで上総に行こうとした。海に望んで言挙げして『こんなちっぽけな海は、立って飛ぶだけで渡ってしまうだろう』と仰せられた」
この海の潮流に習熟していた現地の船乗りたちは、潮流の速い今の時間は止めた方がいいと諌めたようである。それに対して、日本武尊はあえて「言挙げ」(ハッキリと口に出して)、出航を宣言したのである。
しかし、いにしえの大和の国は、伝統的に言挙げをすることをよしとしない国柄であった。
「そこから相模に進んで上総に行こうとした。海に望んで言挙げして『こんなちっぽけな海は、立って飛ぶだけで渡ってしまうだろう』と仰せられた」
この海の潮流に習熟していた現地の船乗りたちは、潮流の速い今の時間は止めた方がいいと諌めたようである。それに対して、日本武尊はあえて「言挙げ」(ハッキリと口に出して)、出航を宣言したのである。
しかし、いにしえの大和の国は、伝統的に言挙げをすることをよしとしない国柄であった。
出航を決める重大な局面において、日本武尊があえて「言挙げ」したことを『日本書紀』が記したのは、日本武尊の行動を暗に非難した伝承を踏まえたのであろう。
『日本書紀』はつづけて記す。
『日本書紀』はつづけて記す。
「ところが海の中ほどまできた時に、突然に暴風が吹いて、御船は木の葉のように漂って向こう岸へ渡ることができなくなってしまわれた。
その時に御子に従う者の中に、弟橘媛という妃がおられた。穂積(ほづみ)氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘である。御子に申し上げた。
『今まさに急に風が吹いて波の流れも速く、このままでは御船が沈んでしまうでしょう。これはすべて海神(わたつみ)のたたりと思われます。どうか、我が身を御子のお命に代えて海に入ることをお許し下さいませ』。
このように申し上げると、浪間に分け入ってそのまま沈んでいかれた。すると暴風は静まり、船は無事に進んで向こう岸に着くことができた。それで世の中の人々は、その海を名づけて馳水(はしりみず)といった」
日本武尊が「吾妻はや(我が妻よ)」と嘆いたことから「東国(あずまのくに)」という名が生じ、千葉県と神奈川県の双方に吾妻神社が祭られた。
15.房総から北進
日本武尊は房総半島を北進し、上総(かずさ)の国(今の千葉県中部)から下総(しもうさ)の国(今の千葉県北部)に進んだ。
各地には、日本武尊の話が伝承されている。例えば、日本武尊が日照りの害に苦しむ住民のため天照大神に祈ったら雨が降って来たとか、不作を嘆く村人に鏡を贈ったところ五穀豊穣の土地に生まれ変わったとか、そして各地の神社には日本武尊の言い伝えが残っているのであります。
次に、常陸(ひたち)の国(現在の茨城県)へ行くのですが、その『常陸国風土記』では、日本武尊は倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)として記載されているのであります。
常陸の国では、日本武尊は天皇と称えられ、その足跡と伝承が後世に伝えられているのあります。
16.陸奥の国々
日本武尊は常陸から陸奥(むつ)の国に巡幸しております。陸奥の国とは、宮城県を含む東北地方であります。この陸奥(むつ)の国は、一体どこからどこまでかは、時代によっても違うますが、はっきりしておりません。
日本武尊は北上川流域をさかのぼり、盛岡まで北上したようです。岩手県北部にある巻堀神社(盛岡市)は猿田彦命(さるたひこのかみ:天照大神に遣わされたニニギノミコトの道案内をした)と日本の国土を造ったイザナギノミコトを祭神としておりますが、日本武尊が所持していた半透明の陽根をご神体として祭ったそうです。
巻堀神社の言い伝えでは、日本武尊は猿田彦命の末裔の娘をめとり男子をもうけたたそうです。
また、日本武尊は白鳥を愛し、各地に白鳥伝説・白鳥信仰が分布しております。
17.帰還への道
東北地方を平定した日本武尊はいよいよ帰還への旅をいたします。日本武尊は筑波山と常陸の国が好きだったとみえ、地上の楽園『常世(とこよ)の国』と褒めちぎって」おります。
常陸の国を出た日本武尊は、武蔵国から甲斐へそして武蔵国の秩父方面に向ったのです。