6.解説『景行天皇と日本武尊』その1
日本武尊(やまとたけるのみこと)については、名前は知っている人も多いと思いますが、その物語を知っている人は少ないのではないのでしょうか?
実は、私も日本武尊(やまとたけるのみこと)が反対勢力に『野焼き』にあい、草薙の剣と火打石による反撃で、火難を免れたとゆうエピソードぐらいしか知りませんでした。
そこで、いくつかの買った本の中から、最も史実に忠実と思われる『景行天皇と日本武尊』により日本武尊の解説を試みたいと思います。
1.大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
景行天皇というのは、奈良時代の学者がつけた漢風の諡号(しごう)で、和風の諡号は、おおたらひこおしりわけと言うそうです。
2.八十人の皇子・皇女
景行天皇には、『日本書紀』によると80人、『先代旧事本紀』では男子が55人・女子が26人もいたそうです。そしてそのほとんどが諸国に派遣され、地方の支配者となったようです。
諸国に派遣されなかった中に、大碓(おおうす)と小碓(おうす:またの名を日本童男(やまとおぐな))という双子の兄弟がおりました。
弟の小碓(おうす)こそが、後の日本武尊(やまとたけるのみこと)なのであります。
ところで、美濃の国に兄遠子(えとおこ)・弟遠子(おととおこ)という美人姉妹がおりました。この美人姉妹に目をつけた景行天皇は自分の妃にしようと思い、双子の兄弟の大碓(おおうす)を派遣しました。ところが、兄の大碓(おおうす)は自分が手をつけてしまったのです。
記紀では、兄の大碓(おおうす)は小心者として扱われておりますが、山木涼子さんの漫画では野心家として大碓(おおうす)の密通劇を面白く取り上げております。さらに、日本武尊の妃・弟橘姫と弟遠子を同一人物として扱っております。
3.豊前の長峡宮
豊前(ぶぜん)は、現在は福岡県の一部ですが、平安時代までは豊国(とよのくに)のみちのくにと呼ばれておりました。長峡宮(ながおのみや)は福岡県行橋市(ゆくはしし)津積(つつみ)にあったとされ、ここには景行神社があります。
東方の蛮族を蝦夷(えみし)・九州の蛮族を熊襲(くまそ)と呼びますが景行12年に熊襲の反乱が起き景行天皇自らが九州に遠征に出かけたのです。そして、長峡宮に滞在したのです。
4.豊後の来田見宮
豊後(ぶんご)は、今の大分県にあたります。来田見宮(くたみのみや)は、大分県竹田市久住町の宮処野(みやこの)神社が行宮跡とされております。景行天皇は、ここで土蜘蛛と呼ばれた勢力を討伐いたします。
5.日向の高屋宮
景行天皇の一行は、日向の国に入り高屋宮(たかやのみや)という仮の宮を作りました。ところが、日本書紀には詳しい記載がなく、日向の高屋宮についての論争があるようです。
6.日向の神話
『古事記』『日本書紀』は、いずれも日向を天皇家発祥の地と伝えております。すなわち、「天照大神から派遣されたニニギノミコトは高千穂に天降り、日向に入って日向王朝の始祖となり、その子孫である神武天皇は、東征して大和に王朝を開いた。」
しかしながら、詳しいことはよくわからないのであります。
7.日向の御刀媛(みはかひめ)
この章では、クマソタケルが出てきます。後の章でてくる日本武尊(やまとたけるのみこと)に殺されるカワカミタケルとは違いますが、小説ではわざと同一人物として扱ったりもしております。
さて、このクマソタケルですが2人の娘がおり、景行天皇は豪華な贈り物でこの姉妹を籠絡(ろうらく)し、クマソタケルをだまし討ちにする話が出てまいります。
このクマソタケルをだまし討ちにした後、日向の御刀媛(みはかひめ)を妃にいたします。
8.肥の国
景行天皇の一行は九州を横断し、肥の国(今の熊本県)に入った。『肥前国風土記』には、詳細な記載があるようです。
9.菊池川の国々
菊池川は熊本県の北部を流れる川です。ここでは、土蜘蛛と呼ばれる地方部族を圧倒的な兵力で討伐したことが記載されております。
10.高羅の行宮
『高羅(こうら)の行宮』とは現在の高良大社のことである。高良大社は福岡県久留米市の高良山にあり、景行天皇はここに拠点を構え、周辺地域の制圧に乗り出したのです。
11.神功皇后の足跡
筑前(福岡県の西部)地方の景行天皇の足跡は、ほとんどわかりませんが、景行天皇の孫にあたる仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后が熊襲討伐のため九州に下向したことは、詳しくわかっているようです。この章では、その概要が記載されております。
12.倭の女王たち
景行天皇の巡幸経路の中で、女性を首長とする地域がいくつもありました。特に、北部九州に多く、これは邪馬台国の卑弥呼の伝統かも知れません。