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 7.解説『景行天皇と日本武尊』その2
いよいよ、日本武尊(やまとたけるのみこと)の登場です。
13.日本武尊出征
 
●九州へ再征
 九州の熊襲が再び反乱を起こしたの小碓(おうす)(=日本武尊(やまとたけるのみこと))を、総大将として派遣することになりました。小碓(おうす)は、弓の名手・弟彦公(おとひこのきみ)とわずかな供を連れての出征であり、山岸涼子先生の漫画では「小碓(おうす)を死なせるのが目的だった。」としております。
 
●日本武尊の誕生
 熊襲の首長は川上タケル(古事記ではクマソタケル)といい、新築祝いをしようとしておりました。そこで、小碓(おうす)は、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)からもらった衣のなかに剣を隠して宴会の席に紛れ込みました。この時、小碓(おうす)は16歳だったと言いますから、女装すれば美人に見えたのでしょうか?川上タケルは酔っている時に殺されてしまいます。
 殺される時に、川上タケルは『タケル』の尊号を送り、小碓(おうす)の別名ヤマトオグナからヤマトタケルになったのです。
 次に『古事記』には、日本武尊は九州からの帰途出雲タケルをだまし討ちにした話がのっております。
 
●大碓(おおうす)の皇子
 『日本書紀』によると、大碓皇子は蝦夷鎮圧に派遣されるのが嫌で草むら隠れてしまい、怒った景行天皇により美濃の国に追放になったとされております。美濃の国といえば、大碓(おおうす)が景行天皇に逆らって、美人姉妹に手を出した話がありました。
●東征
 結局、東方征伐軍の総大将は日本武尊に決まりました。大和を出発した日本武尊は、途中、叔母にあたる伊勢の倭姫命(やまとひめのみこと)のもとに立ち寄りました。
 倭姫命は、皇室に伝わる『草薙の剣(くさなぎのつるぎ)』を授けます。草薙の剣は、スサノオノミコトがヤマタの大蛇(オロチ)を退治した時に、大蛇の尾からでてきたとされております。
 倭姫命は、この宝剣とともに火打石の入った袋を授けました。
 
 伊勢を出た日本武尊は、尾張を通り駿河に向います。
14.東海の道
 
●火難
 日本武尊は尾張から三河を経て、遠江を東に進みました。日本武尊の東征は、第10代の崇神(すじん)天皇の派遣した「四道(しどう)将軍の一人、タケヌナカワワケの命(みこと)」の足跡を参考にしたと思われる。また、平安時代の坂上田村麻呂は日本武尊の足跡を踏まえております。
 日本武尊は大井川を渡り駿河の国に入りました。この当時は、焼畑農業が盛んで、野焼きの風習がありました。日本武尊に反感を抱く土豪勢力が、野焼きという手段で攻撃してきたのです。
 『古事記』と『日本書紀』では内容が若干異なりますが、賊に火を放たれた日本武尊は、叔母の倭姫(やまとひめ)の命のくれた袋の中の火打石を取り出して、迎え火をつけて難を逃れました。草薙の剣は、あたりの草を薙ぎ払うために使ったのです。
 参考までに、迎え火は野焼きの火が延焼した時に火を止める方法で、現在でも使われているのです。
 賊らを斬り殺し、焼き滅ぼしたこの地を『焼津』と名づけられました。
  日本武尊を祀る焼津神社
●焼津
 草薙神社では、日本武尊が難に遭われたのは草薙の地だとしておりますが、一般的には『焼津』と信じられております。焼津といえば駿河であり、『古事記』が『相模と』したのは単なる錯誤だと思われます。
 焼津市には、焼津神社があり日本武尊が主祭神で、ご神体は日本武尊が投げた『火石』と『水石』であります。
 焼津から東に向かうと大崩海岸があり、旧東海道沿いに『日本坂』があります。日本武尊が賊に追われて登った坂といわれ、峠の『穴地蔵』は身を隠した洞窟といわれております。
 焼津から日本坂を越えて安倍川を渡り、いよいよ清水です。
清水に関連するところはそのまま抜粋いたします。
 清水(静岡市)に出ると、草薙神社があり、日本武尊が祭られている。もと西方の東海道に面した「天皇原」に鎮座していたが、葦毛の馬が社前を通ると必ず落馬するので現在地に遷されたという。 
 景行天皇は、日本武尊の没後、関東に巡幸したが、この地に草薙神社を建立し、草薙の剣を奉納し、その後、朱雀元年(686)、第四十代天武天皇(在位673~686)の勅命により、草薙の剣は熱田神宮に移されたという。
 この地には、狩をしている時に犬を放った「御犬ヶ森」、狩で汗をかいた手を洗った「手水ヶ谷」、狩をした時に柳を折って箸にした「柳ヶ沢」、賊徒を鎮圧した後に、戦勝を報告し、さらに東方鎮定を祈願した「東護の森」など、日本武尊の伝承が密である。
 草薙神社の南の山を越えると、富士山の遥拝所の日本平(有度山)で、その海岸部に三保の松原の絶景が広がる。
 さらに東方の庵原(いはら)川は、古代の廬原(いほはら)の国の名称を留めている。清水区の北東山麓の山切にある久佐奈岐(くさなぎ)神社は、江戸時代までは、東久佐奈岐(ひがしくさなぎ)神社とも称し、日本武尊の本宮(本陣)があった地と伝える。日本武尊を主祭神とし、弟橘媛命(おとたちばなひめ:日本武尊の妃)、吉備武彦命(きびのたけひこのみこと:日本武尊の従者)、大伴武日命(おおとものたけひのみこと:日本武尊の従者)、七掬胸脛命(??:膳夫:料理人)を配祀する。吉備武彦が当地を統治し、社殿を築いて日本武尊を祭ったのが起源という。
 『新撰姓氏録』の「廬原(いおはら)の公」の条に、次のような記事がある。
「吉備武彦命は、景行天皇の御世に、東方に遣わされて、毛人(えみし)や荒ぶる神たちを平定し、安倍の廬原の国にいたった。復命した時に、廬原の国を与えられた」
そして『先代旧事本紀』では日本武尊の弟の成務天皇の時代に、吉備武彦の子の思加部彦(しかべ)命を、廬原の国造に任じたという。
 成務天皇の時代に任命された東海地方の国造のすべたが物部氏・尾張氏系であったなかで、清水地域を所管する廬原国造に、日本武尊の東征に従った吉備武彦の子の思加部彦命(意加部彦)が任命されていることに注目すべきであろう。
 久佐奈岐神社は、東征に随伴した9万8千の人々を祭ったことから「九万八千社」とも呼ばれ、かつては祭祀の時に九万八千の幣帛(へいはく:供物)を奉納していたという。日本武尊の東征軍の規模についてはまったく記録はないが、「九万八千」というのは、やや過大な数値であろう。
 久佐奈岐神社の周囲は庵原古墳群に囲まれる。隣接する尾根の先端を利用して、全長六五メートル前方後円墳の三池平古墳があり、竪穴式石室には水銀朱が内部に施された割竹型石棺が置かれていた。変形方格四神鏡・四獣文鏡・石釧・管玉・筒型銅器などが副葬され、五世紀初頭の年代の築造とされている。
 海岸部にある清水区矢倉の矢倉神社は、第十四代仲哀天皇の時代の創建とされる。廬原国造となった思加部彦命が日本武尊と景行天皇を祭ったとされる。日本武尊の東征の際に、軍営を敷き、兵站や武器庫を置いた「矢の倉」にちなむともいう。
 廬原、すなわち、清水を中心とした地域は、漁業・水軍の木地あるいは海運の中継地として、古来、重要な役割を果たしてきた。
 ずっと後の時代、朝鮮半島において唐・新羅軍と百済・日本軍が「白村江の戦い」で激突したが、『日本書紀』天智天皇2年(663)年8月の条に、「大日本国の救援将軍である廬原君臣(いおはらのきみおみ)が、勇武の一万の軍勢を率いて、今まさに海を越えて駆けつけている。どうか諸将はそのつもりで奮闘してほしい。私自身もこれから白村江に出向くつもりだ」と、百済王が全軍を鼓舞する場面がある。日本・百済の命運を担って登場したのが、廬原君臣率いるス水軍であった。
 日本武尊は、清水から富士川を渡りました。
 そして、富士川沿いをさかのぼり富士宮の浅間大社の元宮される山宮浅間神社に祈念したとのことであります。
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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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