(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
清水港の日の出埠頭近く、国道149号線沿いに立つ、洒落たレンガ造りの建物が、フェルケール博物館です。フェルケールとは、ドイツ語で「交通」を意味します。清水港の歴史や役割を紹介するのが、この博物館のねらい。館内には、港やその周りに広がった清水の町の歴史がつまっています。
先月の放送だけではご紹介しきれなかった、近代からの清水港の様子について、今回も学芸部長の椿原靖弘(ちんばらやすひろ)さんにご案内いただきました。
「そうですね。昭和24年ですので、戦後すぐに日本の特定重要港湾に指定されたということで、国の中でも大変重要な港湾になってきているんですけども、昭和30年代から40年代にかけて、皆さんも港の荷物の積み下ろしというと、コンテナということが頭に浮かぶと思うんですけれども、清水の港の場合は、袖師、それから興津にコンテナターミナル造られまして、言ってみれば第三次の修築事業といいますか、大きな港の発展の契機となっております。」
「このコンテナ船というのは、巨大ですよね。」
「かなり大きいですね。300メートルぐらいあるのもございますからね。
それから忘れてはならないことは、皆さん意外と知られていないんですけれども、今、日本丸であるとか海王丸が、清水の港にかなり寄港をします。
その一つの理由となっておりますのが、昭和18年に三保半島の折戸ですね、こちらに清水高等商船学校というものが作られております。この学校が清水の港に作られたことによって、その卒業された方たちが、清水で教えていただいたということを考えて、いろんな船が清水に今、寄港をしてくださっています。
清水高等商船学校について
高等商船学校という名称が使用されるようになったのは1925年(大正14年)である。この際に高等商船学校と呼ばれたのは東京高等商船学校と神戸高等商船学校の2校のみである。1943年(昭和18年)に清水高等商船学校が加わり、3校となった。これらの3校は1945年(昭和20年)に統合され、官立高等商船学校(清水本校・東京分校・神戸分校)となる。高等造船学校の所管は逓信省次いで文部省であったが、一部を海軍が所管したため、戦前は準軍学校としても位置付けられた。
戦後、1949年(昭和24年)に新制大学国立「商船大学」が清水校地に発足し、1957年(昭和32年)に清水から東京に移転の上「東京商船大学」(現・東京海洋大学)となる。神戸分校は1946年(昭和21年)に廃止され、海技学院に継承されたのち、1957年(昭和32年)に国立「神戸商船大学」(現・神戸大学海事科学部)となった。
「日本丸や海王丸が来てくれるのは、そういうご縁があるわけですね。」
「そうですね、はい。」
袖師や興津の埠頭には、コンテナを取り扱う巨大なクレーンが並んでいます。最大の物は、高さが100メートルにもなります。
そして、日の出埠頭では、『太平洋の白鳥』と呼ばれる日本丸や、『海の貴婦人』と呼ばれる海王丸が毎年のように優雅な姿を見せています。今年2016年も、4月に日本丸が寄港したほか、秋には海王丸の寄港が予定されています。