北一輝と親しかった者の中に、大川周明がいる。大川周明は北一輝の『改造法案』にほれ込んでいたが、金銭問題のトラブルで北一輝とは袂を分かった。
大川周明は『金策のできない人間は、国事を論ずる資格がない』という明治から今日にいたるまでのごく当たり前の政治家と同じ政治信条であった。
大川周明だけでなく、北一輝も脅しやタカリで稼いでいたが、西田税は終生純朴な青年将校であった。
大川 周明(おおかわ しゅうめい)
明治19年(1886) -昭和32年(1957)
1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。
なお、東京裁判において民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴されたことでも知られる。しかし、精神障害と診断され裁かれなかった。晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。
ところで、井上日召と西田税は反りが合わなかったようである。井上日召の次の暗殺計画には西田税も入っていたようである。次の5・15事件では、西田税も襲われることになるのであった。
『日本改造法案』を書いた北一輝は、国柱会の日蓮主義者ではなかった。北一輝は、日蓮と同様に同じ法華経を信じる者であり、日蓮とは同格の友であり、同格の予言者との意識が強かったようである。
昭和7年(1932)5月15日 五一五事件発生
この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志である。事件は血盟団事件につづく昭和維新の第二弾として決行された。古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金と拳銃を引き出させた。時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉西田税を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。
首相官邸では、内閣総理大臣犬養毅が殺害された。この時のやり取り『話せばわかる』と『問答無用』はデモクラシーとファシズムの精神を象徴するものとして、はやり言葉にもなった。
外には外国からの脅威、内では赤化汚染の危機―日本人は軍部ファッショの愛国心と武力とに頼らないではおれなくなった。5・15事件のテロリストたちこそは、その尖兵ではないか。
こうした世論に支持されて死刑は15年に、無期は10年へと大幅に減刑された。陸軍士官候補生の被告も8年の求刑が4年に減じた。「被告らは警視庁前で決戦して討死を覚悟していたもので、愛国の至誠にもとづく、1点の私心もない」と検察官の言葉もがらり一変していた。
辻嘉六 (つじ-かろく)
隠退蔵物資事件(いんたいぞうぶっしじけん)
旧日本軍が戦時中に民間から接収したダイヤモンドなどの貴金属類や軍需物資について、GHQ占領前に処分通達を出し、大半が行方知れずとなった。その後、この資金が辻嘉六などを通じて政界に流れていることが分かり、その調査のため衆議院に「不当財産取引調査特別委員会」が置かれた。
-謎のM資金-
この事件は、現在に至るまで様々な噂が続いている。俗に言う「M資金」である。当時のGHQ経済科学局は日銀の地下金庫を捜索しダイヤモンドや貴金属類を押収している。これらの押収した物資の全体像は今でも謎になっている。
日蓮主義は右ばかりに流行したわけではなかった。左にも共鳴者をふやした。
その一人に妹尾義郎がいる。妹尾義朗は広島で「桃太郎」などの銘酒をつくる酒屋の子に生まれた。そうとうに学業に秀でていたようだ。ただ体が悪く、学問の道をすべて断念している。
かくて一転、仏教者として生きようと決意して千カ寺の廻国修行に旅立った。途中、出会ったのが岡山賀陽町の日蓮宗妙本寺の釈日研の孤児院である。後継者になる予定だったが、母危篤のため帰郷。帰郷中、田中智学の「国柱新聞」の話題が入って、にわかに国柱会への熱を募らせていく。ついにじっとしていられず、田中智學を訪れるのだが、あしらわれる。宮沢賢治もその一人、妹尾義郎もその一人である。
やむなく妹尾は統一閣の本多日生のもとを訪れ、ここで日蓮主義青年団をおこして、機関紙「若人」を編集しはじめた。大正8年のことである。
妹尾義郎のスローガンは「仏陀を背おいて街頭へ」であった。仏陀が街頭へ進出するからには、塵埃から身を守る着衣を必要とする。その着衣は、社会科学理論でなければならない、と妹尾は主唱した。その仏陀主義を前面に押し出し、各宗各派の教義主張を捨てて大同団結、純正な共同社会の建設こそが仏教人に与えられた唯一つの社会的実践だ、とも妹尾は説いた。
この『新興仏青』であるが、昭和12年から治安維持法により妹尾義郎も含め、次々に検挙された。逮捕された妹尾義郎は、『転向』を誓い喀血したこともあって昭和17年に仮出所した。
『転向』とは、天皇制の容認である。否定すれば『革命家』、容認すれば『転向者』となる。
1918年本多日生が主宰する法華団体統一団に参加する。翌1919年には統一団の青年信者を中心に、大日本日蓮主義青年団を組織し、機関誌の発行や各地への講演などを精力的に行っている。青年団活動の中で、やがて小作争議や労働争議などにかかわるようになり、社会変革の必要性を説くようになる。
1931年日蓮主義青年団は、妹尾の主導の元、超宗派の新興仏教青年同盟に発展解消。4月5日に開かれた結成大会で、妹尾は初代委員長に選出される。新興仏青はその綱領に「釈迦の鑚仰と仏国土建設」「既成宗団の排撃」「資本主義経済組織の革正と当来社会の実現」などをかかげ、労働運動、消費組合運動、反戦反ファッショなどの活動にかかわっていった。しかし戦時色の強まった1936年2月に特高警察に妹尾は検挙される。1か月後に釈放されるも、同年12月には再度検挙され、治安維持法違反で実刑判決を受け、1940年12月に入獄した。
戦後は、仏教社会同盟委員長、平和推進国民会議議長、日中友好協会東京都連会長などをつとめた。1959年には日本共産党に入党したが、1961年8月に長野県の自宅で没した。