駿 河 近 郊
「 十 二 薬 師 縁 起 」
清水市文化財専門委員
勝瀬光安著
薬師如来について(原文)
薬師如来は印度に於て、四五世紀の頃から信仰された仏様で、中国を経て奈良朝時代に日本に広まり、天武天皇9年(680)には奈良の薬師寺に丈六の薬師像が建立された。薬師如来は梵名をBhaiṣajya-guru( バイシャジヤ・グル:薬師如来)あるいは、 Bhaiṣajya-guru-vaidūrya-prabha-rāja(バイシャジヤ・グル・ヴァイドゥーリヤ・プラバ・ラージャ:薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい))と言い、次の十二の誓願を立て、象生済度を約束された。
1.光明普照 2.随意成弁 3.施無尽仏 4.安心大乗 5.具戒清浄 6.諸根具足
7.除病安楽 8.転女得仏 9.安心正見 10.苦悩解脱 11.飲食安楽
12.美衣満足
この十二誓願中、七番目の「我が名号を一たび其の耳にふるれば、衆病悉く除き身心安楽なり」との誓願によって象生の病気を救い給うによって薬師如来を称せられる。又、東方瑠璃光土の教主なる故に瑠璃光王とも称せられている。
この如来の像は普通蓮華台上に結跏趺坐し、左手を趺坐の上に仰むけにして薬壺をのせ右手は右胸前に掌を前にして立て、施無畏の印をなしている。
但し立像も多少はある。平安朝以前の古い像は薬壺を持っていない。この御姿は法性等流の法楽を衆生に施与して無明妄想の疾患を癒すことを現している。
この如来の珀徳を説く薬師経は、唐の玄奘訳の「薬師瑠璃光如来本願功徳経」の外国訳の経が残っており、衆病治癒と言う現世利益的な性格を持った仏様である。奈良朝時代から釈迦・弥勒・阿弥陀と共に四仏の一と数えられ、薬師寺本尊・法隆寺金堂像・法輪寺木像等、奈良朝時代の傑作が残っている。
奈良朝時代の後期から薬師如来像を中心に、武装した十二神將像を円形に配置する形式が始められた。これは十二支の方角に配置し、如来の十二の誓願を守るものとされている。伝教大師が延歴寺の根本中堂の本尊に、薬師如来を祭ってより、天台宗系の寺院の多くは薬師如来を本尊とした。
現在は眞宗とか禅宗の御寺でも薬師如来を本尊とする寺院は、始めは天台宗であった例が多い。
薬師如来は病気平癒のうち特に眼病に霊験ありと言はれ、遠州引佐郡三ヶ日町大福寺の薬師如来は源頼朝四天王の一人、卜部季武の眼病治癒で名高く清水市吉原の善原寺の薬師は徳川家康の娘の眼をなおして有名になった。又、袋井市の油山寺の薬師も眼病治癒で知られている。
薬師如来について(解説)
薬師如来は印度に於て、4~5五世紀の頃から信仰された仏様で、中国を経て奈良朝時代に日本に広まり、天武天皇9年(680)には奈良の薬師寺に丈六(注)の薬師像が建立された。
(注)丈六(じょうろく)とは
仏像の背丈 (丈量 ) の一基準。仏は身長が1丈6尺 (約 4.85m) あるといわれることから仏像も丈六を基準とし,その5倍,10倍,また2分の1などに造像された。坐像の場合の丈六像は半分の約8尺 (2.43m) ,半丈六像は約8尺の立像。
薬師如来は梵名をBhaiṣajya-guru( バイシャジヤ・グル:薬師如来)あるいは、 Bhaiṣajya-guru-vaidūrya-prabha-rāja(バイシャジヤ・グル・ヴァイドゥーリヤ・プラバ・ラージャ:薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい))と言い、次の十二の誓願を立て、衆生済度(注)を約束された。
(注)衆生済度(しゅじょう・さいど)
1.光明普照(自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く。)
2.随意成弁(仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる。)
3.施無尽仏(仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す。)
4.安心大乗(世の外道を正し、衆生を仏道へと導く。)
5.具戒清浄(戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける。)
6.諸根具足(生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす。)
7.除病安楽(困窮や苦悩を除き払えるよう援ける。)
8.転女得仏(成仏するために男性への転生を望む女性を援ける。)
9.安心正見(一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける。)
10.苦悩解脱(重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける。)
11.飲食安楽(著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く。)
12.美衣満足(困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す。)
この十二誓願中、七番目の「我が名号を一たび其の耳にふるれば、衆病ことごとく除き身心安楽なり」との誓願によって衆生(しゅじょう)の病気を救い給うによって薬師如来を称せられる。又、東方瑠璃光土(注)の教主なる故に瑠璃光王とも称せられている。
(注)来世の仏、西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して、我々の生まれる以前の仏薬師瑠璃光如来の世界は東方浄瑠璃浄土とも呼ばれる。
この如来の像は普通蓮華(れんげ:ハスの花)台上に結跏趺坐(けっかふざ:瞑想する時の坐法で、体が硬い人は意外と大変で、この場合には半結跏趺坐(はんかふざ)でも良い。)し、左手を趺坐の上にあおむけにして薬壺(やっこ)をのせ右手は右胸前に掌(たなごころ:手のひら)を前にして立て、施無畏(せむい:仏教用語。無畏を施すこと。すなわち相手に危害を加えず恐れをいだかせないこと。三施の一つ。施無畏力をもっているために,観世音菩薩は施無畏者と呼ばれる。)の印をなしている。
但し立像も多少はある。平安朝以前の古い像は薬壺(やっこ)を持っていない。
写真は、国分寺:木造薬師如来坐像
この如来の珀徳を説く薬師経は、唐の玄奘訳の「薬師瑠璃光如来本願功徳経」の外国訳の経が残っており、衆病治癒(しゅうびょうちゆ)と言う現世利益的な性格を持った仏様である。
奈良朝時代から釈迦・弥勒・阿弥陀と共に四仏の一と数えられ、薬師寺本尊・法隆寺金堂像・法輪寺木像等、奈良朝時代の傑作が残っている。
奈良朝時代の後期から薬師如来像を中心に、武装した十二神將像を円形に配置する形式が始められた。これは十二支の方角に配置し、如来の十二の誓願を守るものとされている。
現在は眞宗とか禅宗の御寺でも薬師如来を本尊とする寺院は、始めは天台宗であった例が多い。
最澄は、その名の通り最も澄める人でした。彼は仏教の大道を、なんの邪念もなく、 虚心坦懐に淡々と歩み続けました。その五十五年の生涯は、 必ずしも長かったとはいえません。しかし彼は従容として死に就きました。
死後、彼に送られた「伝教大師」の諡 (おくりな)は、 彼の生涯の実績をよく表しています。
彼は日本人に真実の教えを伝えてくれました。そして彼の伝えてくれた教えの灯はいまも彼が開いた比叡の山に 赫々と燃え続けているのです。
写真は、伝教大師(最澄)