(清水歴史探訪より)
一方、学校に関係する歴史としては、第二次世界大戦中の子供たちの記憶も伝えられています。
「そうですね、戦争がだんだん不利な状況になりまして、東京が爆撃を受けるようなことを予想されまして、東京の児童が全国へ散らばって疎開したんですよね。
ここもその1つとして、ここへは昭和18年に、確か来たんです。私が中学1年だったかなぁ、その頃ですかね。
加計塚小学校
加計塚小学校は、渋谷区内の小学校の中でも歴史が古く、1919年(大正8年)4月1日、東京府豊多摩郡渋谷町立加計塚尋常小学校として設立された。
年 表
1919年(大正8年)4月1日 - 東京府豊多摩郡渋谷町立加計塚尋常小学校として設立された。
1932年(昭和7年)10月1日 - 東京市編入とともに東京府東京市加計塚国民尋常学校と名称変更した・
1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令施行により東京府東京市加計塚国民学校と名称変更した。
1941年(昭和18年)7月1日 - 都制実施により東京都加計塚国民学校と名称変更した。
1944年(昭和19年)8月21日 - 第2次世界大戦により児童職員は静岡県に集団疎開した。
1945年(昭和20年)5月24日 - 戦災により校舎が全焼した。
1947年(昭和22年)4月1日 - 文部省令により東京都渋谷区立加計塚小学校と名称変更した。
「子供たちにとっては、大変な時代だったわけですねぇ。」
「そうですね。親から離れて、小学校3、4、5年ごろのねぇ。ですから、子供見たさに時々親が来てるようにも、私見ましたね。」
「子供たちの様子というのは、どんなだったか覚えていらっしゃいますか。」
「生活そのものは、子供たちが楽しいかどうか分かりませんけど、愉快にやっているようでしたけどね。それからの交流も、ある程度はあったんです。
その子供たちが生きていれば、もう80ぐらいになりますからね、たぶんね。その子供たちがまだまだ一生懸命働いている時代には、時たまここを訪れて昔のことを思い出しながら、訪れてくる元児童もおりましたね。」
「子供たちにとって、辛い思い出も残る場所。」
「そりゃそうでしょうね、辛い思いでしょうね。無理矢理に親と離れてこっちに集団疎開ですからね、大変だったでしょうね。泣いているような子供もいましたけれどね。
和尚さんが言いますがね、何かその時使った机がまだ1つか2つ残っているなんていいましたけどね、私まだそれ分かりませんけど、そんなこと言っていまして、どっかにしまってあるんじゃないですかね。」
戦争の激化によって、都会からの避難を余儀なくされた子供たち。現在では想像もつかないような苦労が、小さな肩にのしかかっていたようです。保蟹寺には、その当時の子供たちが使った机が、今でも大切に保管されていました。
「ちょっとここに」
「はい。」
「あ、これ、これ、これね。」
「木の机、机というか、何かベンチの台のような感じですね。」
「本当にお粗末な台ですね、これ。」
「これで、疎開してきた子供たちは勉強していたわけなんですね。」
「勉強はしておりました。食事したりとかっていう話も。」
「そうでしょうね。もっとたくさんあったはずですね。」
「それで、直すときに捨てちゃうということで、3つぐらい、いいのだけとっておいて、だからこうちょっと曲がったり、色々足が不安定になっていますけど。私が来て何年目かに来た方が、『4年生のときに使った机だ』って言っていました。」
「それじゃ、こちらに疎開していた方がいらっしゃって。」
「東京・渋谷の方と言っていました。その方が子供を連れてきて、ここに来て、これが使った机だっていうお話をしていました。」
「これからも、この机は保存なさいますか。」
「はい。一応、そのつもりでおります。」