(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
葵区との境に近く、梶原山の名前で知られる山のふもと。住宅地の奥に、曹洞宗 富谷山 保蟹寺(そうとうしゅう ふこくざん ほうかいじ)があります。梶原景時とのご縁でも知られるこのお寺には、ちょっと変わった姿の仏様が祀られています。
その保蟹寺に、檀家総代の設楽 斉(したらひとし)さんを訪ねました。
『臨済宗』の座禅は看話禅(かんなぜん:「おしゃべりな禅」と曹洞宗が揶揄したのです。)と呼ばれ、有名な人物に一休禅師がいます。公案と呼ばれる厳しい問答が重視される、臨済宗の気風を表しています。臨済宗の世界は、まさに「禅問答」の世界なのであります。
これに対し、『曹洞宗』の座禅は黙照禅(もくしょうぜん)と呼ばれています。九年間坐り続けた達磨大師のように、壁に向かって黙々と坐り続ける面壁座禅が基本です。
臨済宗の座禅会では座禅者同士が向かい合い、曹洞宗では壁を前にして坐ります。また臨済宗の座禅会では問答が行われることはありませんが、言葉を尽くす禅風からか、座禅が終わると法話を聞かせて頂けることも多いです。
「このお寺、もう400年ぐらい経っているんでしょうね、できてからね。そういう謂れ(いわれ)のお寺なんですけれども、このお寺の特色と言いますと、蟹薬師如来が本尊というのがこのお寺の特徴なんです。
薬師さんという本尊さんは世の中にたくさんあるんですけれど、蟹に乗った薬師さんというのは、本当に珍しいんですよ。聞くところによると、愛知県にあって、埼玉県にある(調べてみましたが探せませんでした。)とか、そんな話も。
寺の所在地の地名綺田(かばた)は、古くは「カニハタ」「カムハタ」と読まれ、「蟹幡」「加波多」などと表記された。この寺の創建年代は周辺の発掘調査から飛鳥時代後期(7世紀末)の創建と推定されている。その後、江戸時代の正徳元年(1711年)智積院の僧亮範が入寺し再興された。今昔物語集等に記載がある蟹の恩返しの伝承で有名である。国宝の釈迦如来坐像(像高2.403m、重さ2tの金銅製)の造立は奈良時代以前と考えられ、同様の初期の丈六金銅仏は飛鳥大仏、現興福寺仏頭、薬師如来坐像のみである。なんとなく、保蟹寺より有名?
昔、このあたりに善良で慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでいたという。娘は、幼い頃から特に慈み深く、いつも観音経の普門品を読誦して観音さんを信仰していた。
ある日、村人が、多くさんの蟹を捕えて食べようとしているのをみて、その蟹を買って草むらへ逃がしてあげた。父親が、畑仕事をしていると、蛙を呑み込もうとしている蛇を見つける。蛙を助けようとした父親は思わず「蛙を放してやったら娘を嫁にくれてやろう」と言ってしまう。すると、蛇は、蛙を放して姿を消した。
その夜、五位の衣冠を着た青年が家を訪れてきて、昼間の約束を迫ってきた。父親は、困り果てて、嫁入仕度を理由にして、三日後に再び来るようにと青年を帰した。
三日後、家族は、雨戸を堅く閉ざして恐ろしさで閉じこもっていた。青年は、怒り、本性を現して蛇の姿となって荒れ狂った。
娘が、ひたすら観音経の普門品をとなえていると、温顔に輝く観音さまが現われて「決して恐れることはない、汝らの娘は慈悲の心深く常に善良な行いをされ、また我を信じて疑わず、我を念ずる観音力は、この危難を排するだろう」と告げて姿を消した。すると、雨戸を叩く音が消え外も静かになった。
夜が明けて、外に出てみると、ハサミで切り刻まれた大蛇と、無数の蟹の死骸が残されてた。家族は、観音さんの守護を感謝して、娘の身代りとなった、多くの蟹と蛇の霊を弔うため、御堂を建てて観音さんを祀り、「蟹満寺」と名付け、観音経の普門品をとなえていたことから「普門山」と号したといわれる。
とにかく少ない本尊さんです。もちろん、蟹に関係したお寺でございまして、謂れと言いますと、まあ、いわゆる物語ですから、『昔々のはなし』なんですがね。
『昔々、この村に疫病がものすごく流行った』ということが言われています。『その疫病でバタバタ、バタバタ・・』というと極端ですけれど、亡くなる人が多くて、村人が非常に困っていたような物語があります。
そうしたところがね、うちの方のこの保蟹寺の下の方に巴川っていう川が流れているんですけれども、今は改修されて立派な巴川ですけど、その頃の巴川というのは、うねうねと蛇行した巴川なんですが、その巴川へ、蟹に乗った何かが流れてきたというのを見つけたんですよね。
それが、いわゆる蟹薬師さんだったんです。そして、薬師さんに陸へ上がってもらって、そこへお堂を建てたんでしょうね。だから、その近くにね、大内地区なんですけど、『薬師堂』という地名が今も残っております。薬師堂へいわゆるお堂をつくってお祀りしたんじゃないですかね。
その薬師さんを、このお寺の裏に来ていただいて、『薬師平(やくしだいら)』というその地名もこのお寺の裏にあるんです。ある程度の名跡のある平(たいら)がありまして、そこのことを未だに『薬師平、薬師平』と呼んでおります。
それからここへ下りてきたという風に世の中では言われています、現在のお寺のあるところへ。それがこの保蟹寺の謂れなんです。
左の写真の奥が、薬師平
謂れと色々言いますと、このお寺も、私も設楽(したら)って言いますけど、設楽の姓がある程度いるんです。ここの開基(かいき)さんというのは、名前で言うと設楽四郎左衛門(したらしろうざえもん)っていう人がこの保蟹寺の開基さんということになっているんです。
というわけで、設楽と非常に関係のあるお寺なんです、特に蟹に関係のあるお寺。
その蟹に関係のあるお寺のことをいいますと、ここに、横に川が、沢が流れておりますけれど、その川を『薬師沢(やくしざわ)』というんです。今は改修されてコンクリになっちゃいましたので、蟹はいませんけれども、その昔の川の時代は、蟹がたくさんいたんですね。このお寺の関係する、『この薬師沢の蟹はとってはいけない、とって食べてはいけない』という、私たちが子供のころからそういう風に言われていますね。
とにかくここは、『保蟹寺』、名前の示す通りに、蟹に関係したお寺さんなんです。そういうわけでございます。」
「お薬師さんが乗ってきた蟹なんですけれども、これはどんな蟹だったんでしょう。」
「本尊さんが乗っておりますが、普通の蟹ですよ、この、何というか足広げた。その上へ立っているんですよ。台というか、蟹の上へ本当に立っている、そういうお薬師さんです。
いわゆるお薬師さんというと、お医者さんの関係ですから、いろいろ健康を願ってお参りに来る人たちも、ここにはおるんですけれど、そういう謂れのあるお寺でございます。」
「大きさは、どのぐらいの大きさなんですか。」
「本尊さんですから、写真もありますけれどね、小さいんですよ、本尊さんといって祀ってあるのは。30センチないかな、それぐらいのもんですよ。立っている仏さんなんです。蟹の上へこう直立に立っている、そういう仏さんです。それが乗るようになった蟹が、蟹もちゃんと台座があるんです。両方に足を広げた蟹ですよ、そういう形ですね。」