(清水歴史探訪より)
この地域の繁栄の中心にあった尾羽廃寺。お寺は、いつごろまで存在したのでしょうか。
「廬原(いほはら)氏なんですが、その後はどうなったんでしょう。」
「そうですね、廬原(いほはら)氏と言いますと、日本史の中では、朝鮮半島へ白村江(はくそんこう)の戦い、『はくすきのえのたたかい』ですね、出て行って、ということも残っておりますけれども、その後はあまり文献の方には沢山は出てまいりません。
廬原君臣(いほはらきみおみ)の参戦
<史料1>は、『日本書紀』天智天皇2年(663)8月13日の条に記載された白村江の戦いに臨む百済王の余豊璋の言葉であり、「日本から救援軍の大将として廬原君臣が強力な援軍を率いてくるので、承知して戦ってほしい」と諸将を鼓舞している。
白村江の戦いの結果は、ヤマト政権が支援した百済再興軍が大敗し、日本の400艘余りの船は炎上し、海が真っ赤に染まったと中国の史書は伝えている。
<史料1>の廬原君臣は、白村江の戦いにおいてどのような戦いをしたかは不明であるが、静岡市清水地区を中心に本拠とした廬原国造(いほはらくにのみやつこ)である廬原氏の出身である。
蘆原君(いほはらのきみ)とその末裔(まつえい)
『日本書紀』天智天皇2年(663)条の白村江の戦いで、蘆原君が援軍の将として登場します。最古の仏教説話集『日本霊異記』には、白村江の戦いからの無事帰国を感謝して寺院が建立されるという備後国(びんごのくに・広島県)の話が載せられています。蘆原氏が当地方への仏教の浸透に努め、それが7世紀末ころの尾羽廃寺の建立へとつながったとも考えられます。
奈良時代以降では庵原郡の郡司クラスとして庵原氏の名が見え、中世以降もこの地にとどまり、今川氏の軍師として名高い太原崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)を排出します。
ただ、この辺りが庵原(いはら)郡、廬原(いほはら)氏の中心部であったというのは、ある程度時代的には続いていきます。その後、直接、昔の廬原(いほはら)氏とのつながりというのははっきり分かりませんけれども、やはり、『庵原氏(いはらし)』という、中世になってからの武士団がこのあたりにいたと考えられます。」
「このお寺なんですけれども、いつごろまで存在したんですか。」
「そうですね、先ほど申し上げた金堂については、建替えられているということが、発掘調査で確認されています。建替えがされたのは、だいたい10世紀から11世紀ぐらいという風に考えられます。
それ以降はどうも再建されずに、整備等が続けられずに今に至っているという風に考えられます。これは、深い関わりを持っている廬原(いほはら)氏の盛衰と大きく関わっているのではないかと考えられます。」
尾羽廃寺跡展 略年表
538 仏教の伝来(百済聖明王から経典、仏像、幡蓋がもたらされる。)崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏、中臣氏)
588 飛鳥寺(法興寺)の建立(物部氏討伐のために蘇我馬子が戦勝を祈願したのが始まりとされる)
607 若草伽藍(法隆寺)の建立(聖徳太子)
四天王寺の建立(聖徳太子)
639 百済大寺の(吉備池廃寺)建立
641 山田寺の建立(蘇我倉山田石川麻呂が建立に着手、石川麻呂無実の罪により死後685年に完成)
645 大化改新
662 このころ川原寺の建立(天智天皇が斉明天皇の追善のために建立?)
663 白村江の戦い(蘆原君臣援軍の将として参戦)
670 若草伽藍(法隆寺)の炎上
法隆寺の再建
673 川原寺で一切経書写
680 薬師寺の建立(天武天皇が皇后の病気平癒を祈って建立)
685 天武天皇により諸国家ごとに仏舎をつくり、仏像と経典をおいて、礼拝供養せよと
の詔がだされる。このころから多くの地方寺院が建立される。
このころ尾羽廃寺が建立されたと思われる。(7世紀後半)
700 このころ島田市竹林寺廃寺の建立(8世紀初頭)
このころ富士市三日市廃寺の建立(8世紀初頭)
741 聖武天皇により国分寺建立の詔がだされる。
このころ片山廃寺跡が建立されたと思われる。(8世紀中ごろ)
1000 このころ尾羽廃寺の金堂を再建
中世 尾羽廃寺跡は中世になって廃絶
尾羽廃寺のさまざまな出土品や、瓦を焼いた窯の状況は、静岡市埋蔵文化財センターで展示・保管され、調査も続いています。
当時の先進的技術を取り入れた、窯のあった場所は、公園として整備され、記念碑に刻まれた説明文のほか、当時を偲ぶものは残されていません。
しかし、そのすぐ隣には、ロボットを開発する工場などが立ち並び、現在も最先端の技術開発を担っています。
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お相手は、石井秀幸でした。
この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いのいそべ会計がお送りしました。いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください