(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
東名高速道路 清水インターチェンジの近く、尾羽廃寺跡(おばねはいじあと)として知られる史跡があります。現在も調査が続くこの遺構について、静岡市埋蔵文化財センターに、静岡市 歴史文化課の鈴木のぶゆきさんを訪ねました。
「清水区のですね、庵原(いはら)の近くにありますけれども、尾羽という集落がございます。そのあたりにかつてあった白鳳時代(はくほうじだい)のお寺の跡、それが尾羽廃寺跡になります。」
「白鳳時代といいますと、どのぐらいの頃になるんでしょう。」
「大体7世紀から8世紀にかけて、最初に造られたと考えられるお寺になります。いわゆる、国分寺(注)などよりも古い時代のお寺ということになります。」
「かなり大きなお寺だったんですか。」
「そうですね。今あるお寺よりも範囲としては非常に広いものであったという風に考えられます。」
「このお寺なんですけれども、普通に今、一般にあるようなお寺と同じようなものなんですか。」
「昔のお寺というのはですね、今お寺と言いますと、お葬式をやったりお墓参りをしたりということが思い浮かぶかもしれませんけれども、当時はむしろそういうよりも、学問の場所というような性格の方が強かったと思われます。」
「そのお寺を作ったのは、どんな方だったんでしょう。」
「そうですね、この尾羽廃寺がありますのが清水区の庵原地区になるんですけれども、このあたりには、かつて廬原(いほはら)氏と呼ばれている豪族ですね、そういった豪族がいたと言われております。
1号墳と4号墳は県の史跡に指定されています。
午王堂山Ⅱ遺跡や午王堂山古墳群は、東名高速道路清水インターチェンジ建設のときに発見され、弥生時代中期から平安時代の住居跡や溝が見つかったんだ。午王堂山古墳群はこれまでに3つが確認されていて、3号墳は市内では唯一の前方後方墳なんだ。午王堂山Ⅱ遺跡では、弥生時代中期から古墳時代初めにかけての住居跡が16件、溝状遺構が4本確認された。その中で鳥形土器(写真)という珍しい土器が見つかったんだ。
「そうしますと、廬原(いほはら)氏が建てたと考えて宜しいんでしょうか。」
「そうですね、決定的な証拠はなかなか難しいんですけれども、廬原(いほはら)氏に非常に関わりの深い、廬原(いほはら)氏が建てた可能性が十分にあるお寺ではないかと考えます。」
ヤマトタケルは、相模の国に入る前で弟橘比売(おとたちばなひめ)と合流した。
土地の役人がヤマトタケルを迎え,草原の神が従わないから成敗してほしいと,沼に案内した。しかし,それは罠であった。いつの間にか草原に火がつけられ炎に囲まれてしまった。弟橘比売とともに焼かれてしまうところだったが,持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣でまわりの草を刈り,叔母にもらって持っていた火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えた。このとき風向きも味方した。ヤマトタケルは罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いた。この地が静岡県の静岡市(旧清水市か焼津市)ではないかと言われている。
静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社 天叢雲(あめのむらくも)の剣によって難を逃れたヤマトタケルはこの剣を「草薙(くさなぎ)の剣」と改名した。「草薙の剣」は三種の神器の一つであり,名古屋市の熱田神宮に祀られている。静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社の由緒書きには「草薙の剣」が神剣として草薙神社(写真)に祀られているとある。
この草原の名を「草薙」として現在も地名として残っている。
また,ヤマトタケルは小高い丘に登り周りの平原を見渡した。この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。
『古代史』の扉より
上記の文章でわかるとおり、ヤマトタケルはほぼ確実に清水の地を訪れているのであります。
では、ヤマトタケルと廬原(いほはら)氏の関係はどうであったかというと、光仁(こうにん)6年(815)に完成した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、吉備武彦命(きびたけひこのみこと)がヤマトタケルの東方征伐に加わり、その功績により廬原国を賜ったと記されているのです。
さらに、その子孫の廬原君臣(いほはらのきみおみ:又はおみたり)は白村江(はくそんこう:又ははくすきのえ)の戦いに出兵したことがわかっているのです。
また、廬原君臣の子、廬原大蓋(いほはらのおおがさ)やその孫の廬原首麻呂(いほはらのおびとまろ)は国造(くにのみやつこ)になっているのです。
この国造(くにのみやつこ)という職業は、江戸時代の藩主と今の県知事の中間ぐらいの権限があったのではないかと思われます。
ちなみに、静岡県の国造(くにのみやつこ)は、①磐田中心の遠淡海(とおつおうみ)国造・②袋井中心の久努(くの)国造・③掛川中心の素賀(そが)国造・④富士中心の珠流河(するが)国造・⑤伊豆中心の伊豆(いず)国造・そして⑥清水中心の廬原(いほはら)国造の6人がいたのであります。
蘆原国から蘆原郡へ
その後、珠流河・蘆原が統合されて駿河国となり、その下に郡・郷・里が組織化されました。西奈(瀬名)から奥津(興津)までのほぼ巴川の左岸地域は庵原郡となり、役所である郡衙(ぐんが)は尾羽のあたりに置かれていたと考えられています。
古代の文献には、伊豆・珠流河(するが・駿河)・蘆原など、6人の国造(くにのみやつこ)の名が見えています。蘆原国造の支配領域は富士川から大井川の地域で、前方後円墳の密度から静清平野が中心であったとされています。