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1.静岡市埋蔵文化財センターを訪ねて

清水歴史探訪より)

清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~

毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。

  


 東名高速道路 清水インターチェンジの近く、尾羽廃寺跡(おばねはいじあと)として知られる史跡があります。現在も調査が続くこの遺構について、静岡市埋蔵文化財センターに、静岡市 歴史文化課の鈴木のぶゆきんを訪ねました。


 

「清水区のですね、庵原(いはら)の近くにありますけれども、尾羽という集落がございます。そのあたりにかつてあった白鳳時代(はくほうじだい)のお寺の跡、それが尾羽廃寺跡になります。」

「白鳳時代といいますと、どのぐらいの頃になるんでしょう。」

「大体7世紀から8世紀にかけて、最初に造られたと考えられるお寺になります。いわゆる、国分寺(注)などよりも古い時代のお寺ということになります。」

白鳳時代について(私見)
 
 一般的には、およそ3世紀後半から6世紀半ば頃までを古墳時代と呼ばれております。そして、仏教伝来の年とされる6世紀半ばの538年頃を境に飛鳥時代と呼ばれるようになりました。飛鳥時代は主に飛鳥に都のあった時代でもあり、奈良に都を移した710年からを奈良時代、京に都を移した794年からを平安時代と私は呼んでおります。
 しかしながら、美術史では飛鳥時代を白鳳時代(または白鳳文化)と呼んだり、538年から法隆寺が炎上した670年頃までを飛鳥時代・670年から奈良に遷都するまでを白鳳時代と呼んだり、白鳳時代を奈良時代前期と呼んだりしております。さらに、奈良時代を天平時代(または天平文化)とか奈良時代後期と呼んだりしております。このように、時代の区分は人によって違います。
 静岡市埋蔵文化財センターでは、縄文時代・弥生時代・古墳時代・古代と分け、古墳時代の中に飛鳥・白鳳時代を含めているようです。古代は奈良時代と平安時代です。さらに飛鳥時代と白鳳時代を区分することなく白鳳時代と呼んでいるようで、ここでの白鳳時代は古墳時代の後期という意味のようです。
 では、あえて飛鳥時代・白鳳時代・天平時代に分けて仏教遺跡を見てみましょう。
飛鳥時代の仏教遺跡(538~670)
百済観音像模造
(新納忠之介作、東京国立博物館蔵)
中宮寺 木造菩薩半跏像(国宝)
玉虫厨子(法隆寺)
天寿国繍帳(中宮寺)
白鳳時代の仏教遺跡(670~710)
法隆寺西院伽藍
飛鳥様式だが白鳳時代に再建
法起寺三重塔
銅造聖観音立像(薬師寺)
法隆寺金堂壁画(1949年焼損)
天平時代の仏教遺跡(710~794)
 
 710年の平城遷都に際し、当時飛鳥にあった法興寺(元興寺)、大官大寺(大安寺)、薬師寺、厩坂寺(興福寺)などの寺院はこぞって新京へ移転した。また、新京には東大寺、西大寺、唐招提寺などが新たに建立された。
東大寺法華堂(三月堂)
正倉院宝庫
唐招提寺金堂
唐招提寺講堂
(注)国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれます。奈良に遷都した710年以降の天平時代に作られた寺院であります。
 では、参考までに静岡県の国分寺(国分僧寺)を紹介いたします。
遠江国分寺
CGで復元された国分寺
駿河国分寺
駿河国国分寺の後継寺院といわれる
伊豆国分寺
旧国分寺塔跡(国の史跡)

「かなり大きなお寺だったんですか。」

「そうですね。今あるお寺よりも範囲としては非常に広いものであったという風に考えられます。」

「このお寺なんですけれども、普通に今、一般にあるようなお寺と同じようなものなんですか。」

「昔のお寺というのはですね、今お寺と言いますと、お葬式をやったりお墓参りをしたりということが思い浮かぶかもしれませんけれども、当時はむしろそういうよりも、学問の場所というような性格の方が強かったと思われます。」

「そのお寺を作ったのは、どんな方だったんでしょう。」

「そうですね、この尾羽廃寺がありますのが清水区の庵原地区になるんですけれども、このあたりには、かつて廬原(いほはら)氏と呼ばれている豪族ですね、そういった豪族がいたと言われております。

 その本拠地だったと言われております。
 それを象徴するように、三池平古墳(みいけだいらこふん)ですとか、神明山古墳(しんめいさんこふん)、午王堂山古墳(ごおうどうやまこふん)といった、大きな古墳が昔から造られている地域です。
放送日   平成26年11月8日(土曜日)
 
 庵原中学校の東側の丘陵に、三池平古墳があります。この場所は、景色が良く、散歩やわざわざハイキングに来る人もいますが、ほとんどの人は存在すら知りません。三池平古墳の駐車場は、ナショナルトレーニングセンター共用で、ナショナルトレーニングを目指してくれば簡単に来られます。なお、出土遺物は静岡市埋蔵文化財センター(入場料無料)で保管しており、一部展示しております。  
 神明山古墳群は独立した小丘陵上にある5つの古墳からなり、1号墳と4号墳が現存しています。1号墳は全長約70mの古墳時代前期の前方後円墳で、発掘によって、奈良県の箸墓古墳の四分の一の設計で造られていたことがわかりました。4号墳は約11mの古墳時代後期の円墳で、全長10.5m、最大巾1.9mの横穴式石室が良好に保存されています。川原石を積んで造った横穴式石室からは、青銅製の馬鈴などの馬具、鉄製の兜や鎧(甲冑)、勾玉、丸玉などのアクセサリー、さまざまな器類(須恵器)が見つかりました。古代の庵原地域を治めていた有力豪族によって築かれたことが想像できます。
 1号墳と4号墳は県の史跡に指定されています。

ごおうどうやまに遺跡

 

 午王堂山Ⅱ遺跡や午王堂山古墳群は、東名高速道路清水インターチェンジ建設のときに発見され、弥生時代中期から平安時代の住居跡や溝が見つかったんだ。午王堂山古墳群はこれまでに3つが確認されていて、3号墳は市内では唯一の前方後方墳なんだ。午王堂山Ⅱ遺跡では、弥生時代中期から古墳時代初めにかけての住居跡が16件、溝状遺構が4本確認された。その中で鳥形土器(写真)という珍しい土器が見つかったんだ。

 そういった地域にございますので、恐らくその廬原(いほはら)氏に関係する氏寺(うじでら)といった性格を持っているお寺ではないかと考えられます。」

「そうしますと、廬原(いほはら)氏が建てたと考えて宜しいんでしょうか。」

「そうですね、決定的な証拠はなかなか難しいんですけれども、廬原(いほはら)氏に非常に関わりの深い、廬原(いほはら)氏が建てた可能性が十分にあるお寺ではないかと考えます。」

ヤマトタケルと廬原氏
 
 古墳時代の英雄といえば、日本武尊(ヤマトタケルの」ミコト)であります。静岡市の関係するヤマトタケル伝説は次のようなものです。

 ヤマトタケルは、相模の国に入る前で弟橘比売(おとたちばなひめ)と合流した。

 土地の役人がヤマトタケルを迎え,草原の神が従わないから成敗してほしいと,沼に案内した。しかし,それは罠であった。いつの間にか草原に火がつけられ炎に囲まれてしまった。弟橘比売とともに焼かれてしまうところだったが,持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣でまわりの草を刈り,叔母にもらって持っていた火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えた。このとき風向きも味方した。ヤマトタケルは罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いた。この地が静岡県の静岡市(旧清水市か焼津市)ではないかと言われている。 

静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社  天叢雲(あめのむらくも)の剣によって難を逃れたヤマトタケルはこの剣を「草薙(くさなぎ)の剣」と改名した。「草薙の剣」は三種の神器の一つであり,名古屋市の熱田神宮に祀られている。静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社の由緒書きには「草薙の剣」が神剣として草薙神社(写真)に祀られているとある。

  この草原の名を「草薙」として現在も地名として残っている。

  また,ヤマトタケルは小高い丘に登り周りの平原を見渡した。この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。

『古代史』の扉より

 上記の文章でわかるとおり、ヤマトタケルはほぼ確実に清水の地を訪れているのであります。

 

 では、ヤマトタケルと廬原(いほはら)氏の関係はどうであったかというと、光仁(こうにん)6年(815)に完成した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、吉備武彦命(きびたけひこのみこと)がヤマトタケルの東方征伐に加わり、その功績により廬原国を賜ったと記されているのです。

 

 さらに、その子孫の廬原君臣(いほはらのきみおみ:又はおみたり)は白村江(はくそんこう:又ははくすきのえ)の戦いに出兵したことがわかっているのです。

 また、廬原君臣の子、廬原大蓋(いほはらのおおがさ)やその孫の廬原首麻呂(いほはらのおびとまろ)は国造(くにのみやつこ)になっているのです。

 この国造(くにのみやつこ)という職業は、江戸時代の藩主と今の県知事の中間ぐらいの権限があったのではないかと思われます。

 ちなみに、静岡県の国造(くにのみやつこ)は、①磐田中心の遠淡海(とおつおうみ)国造・②袋井中心の久努(くの)国造・③掛川中心の素賀(そが)国造・④富士中心の珠流河(するが)国造・⑤伊豆中心の伊豆(いず)国造・そして⑥清水中心の廬原(いほはら)国造の6人がいたのであります。

蘆原国から蘆原郡へ 

 その後、珠流河・蘆原が統合されて駿河国となり、その下に郡・郷・里が組織化されました。西奈(瀬名)から奥津(興津)までのほぼ巴川の左岸地域は庵原郡となり、役所である郡衙(ぐんが)は尾羽のあたりに置かれていたと考えられています。

 古代の文献には、伊豆・珠流河(するが・駿河)・蘆原など、6人の国造(くにのみやつこ)の名が見えています。蘆原国造の支配領域は富士川から大井川の地域で、前方後円墳の密度から静清平野が中心であったとされています。 

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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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