(清水歴史探訪より)
「どのぐらいの規模のあるお寺だったんでしょう。」
「そうですね。今、現地に行きますと、看板は立っておりますが、お寺の様子というのはもちろん分かりません。大まかに言いますと、東名高速道路と静清バイパス、その間ぐらいが、大きく見て南北の長さという風に考えていただいて宜しいかと思います。」
「今イメージするお寺と比べますと、かなり大きなものと考えていいんでしょうか。」
「そうですね、それの中にお寺の施設、金堂・講堂といったもの、それからお寺によく建てられました塔の跡ですね。そういったものが分布しているということになります。」
「建物も、いくつもあったんですか。」
「そうですね。発掘調査で確認された建物、確実にあるものは金堂跡、これはお寺の中心的な建物で、本尊が置かれたような建物なんですけれども、その他に講堂跡、これはお経などの講義を行う場所。
あとは、塔と思われる建物があった可能性が高い場所というのも確認されておりますので、これからまだ細かい、例えば、お坊さんが普段寝泊まりをする僧房(そうぼう)というような建物も恐らく中にはあったと思われますので、そういったものは今後の調査の中で、見つけていかなければならないところだと思います。」
「塔の跡もあったということなんですけれども、よくある、三重塔・五重塔といったものなんでしょうか。」
「そうですね、いわゆる皆さんが想像される塔の跡ですけれども、実際には塔の建物自体はもちろん残っておりませんので、その基礎の部分というのが発見されれば一番位置が確定するんですけれども、そういったものが今のところまだ見つかっておりません。
ただ、塔のですね、建物の上の方に置かれたと思われる、石製の路盤(ろばん)というものがこちらにございますけれども、それは見つかっておりますので、恐らく塔はかつては存在したのは間違いないと思います。」
「これは塔の部品の一部ということなんですね。」
「そうですね。屋根のかなり上の方にですね、置かれた石で造られたものなんですけれども、ちょっとご覧いただくと、一辺1メートルちょっとぐらいありますでしょうか。
中に丸い穴が開いておりまして、それを上からかぶせるような形で、芯柱のかなり上の方につけられたもので、重さとしては大体700キロぐらいあるそうです。塔ですので、高さも相当あったと思われます。
近くを歩いている人たちが、回りから見渡して『ああ、あそこにお寺があるんだな。』というのが一目で分かるようなシンボル的な建物だったと考えられます。」
このお寺には、どんな人たちがいたのでしょうか。
「かなり規模も大きかったということで、たくさんのお坊さん方いらっしゃったんじゃないかなと思いますが。」
「そうですね。主に、そこで学問をそこで修めようということで、仏の教えを広めるための、いろいろさまざまな勉強をしていたというような施設だったと考えられます。」
「当時ですから、その仏の教え、仏教というのは、学問の中の中心的なものだったんですか。」
「そうですね。それまではむしろ神道やら、さまざま日本は『八百万(やおよろず)の神』がいたという風なことを言われますけれども、それに新たにその仏の教えというものが日本に伝わってきて、それが広がっていく最初の頃のお寺ということになります。」
「そうしますと、この尾羽廃寺というのはこの地域の文化の中心みたいなところだったんですね。」