(清水歴史探訪より)
梶原景時終焉の地に立つ梶原堂には、古びた景時と頼朝公の位牌のほかに、二体の仏像が安置されています。
開運毘沙門天御縁起
この梶原堂に祀る開運毘沙門天は名將梶原景時の護持佛で名工運慶の作と傅らられている。
景時自盡の際われに代ってこの尊像を護持する人に災難消除福德延命あらしめ給えと祈念し側らの松樹の根元に置かれた。
歳移ってある夜聖人の夢枕に毘沙門天が現われ
景時公の念願を討ち与うべしとのお告げがあったので里人は尊像を掘り起こし梶原堂を建てて安置し以来霊験あらたかな毘沙門天様を崇め深く信仰して来た。
昭和38年1月20日
清水市長 稲名亀造 書
「ここには仏様がいらっしゃるんですね。」
「そうです。真ん中にあるのは、毘沙門天(びしゃもんてん)ですけどね。それで、如意輪(にょいりん)観音というのがこちらにあるんですけれども、北条政子にいただいたという云われがあるんです。これがもし鑑定して本当なら、大したものですけれどね。そういう云われはあります。」
「拝見したところ、金色で、かなりこう豪華な感じに作られているんですね。」
「そうですね。だいぶ傷んでおりましてね、市の文化財をお願いして、何とか調査をしてくれないかとお願いをしているんですが、そのままになっているんです。梶原景時がここで終焉の地を迎えて、亡くなったのは、きっぱりの1200年です。1200年に亡くなったんです。要するに816年前に亡くなったんですけれど、それ以来、いつの時代か知りませんけど、地元は祀るようになったんでしょうかねぇ。それ以来ずーっと、私が知っている範囲じゃ、ずっとお祭りをしておりますね。」
北条政子は、源頼朝の正室ですから、ご縁があっても不思議ではありません。伊豆に流されていた頼朝に嫁ぎ、鎌倉幕府の二代将軍頼家(よりいえ)・三代将軍実朝(さねとも)を生みます。頼朝の没後は尼となりますが、幕府の中心人物として政務に関わり続け、『尼将軍』とも呼ばれました。果たして、如意輪(にょいりん)観音は誰がもたらしたのか、今後の調査が待たれます。
この梶原堂は、地域の人たちの手によって、今もお祭りが行われています。
「お祭りはね、この地元の人がいわゆる昔から祀っていたらしいんですが、現代になってから、この地元、この大内っていうところがけっこう広くて、この地区が牛ヶ谷地区っていうんです。牛ヶ谷地区に班(昔でいう隣組)が、自治会の単位がありまして、5組あるんですね。5組が1年ずつ交代で、お祭りをやっているんです、当番制で。盛大に大勢来てもらってね、やるんです。」
「梶原堂のお祭りというのは、いつ行われるんですか。」
「それが、本来は亡くなったのが1月20日なんです、梶原景時が自害したのは。その1月20日にお祭りするのは本来で、昔は、たぶんその日にやっていただろうと思うんですけれども。だいたい、今の世の中になりまして、実はここの村に霊山寺っていう、皆さんご存知の観音さん、お祭りが3月3日にあるんです。その祭りの日にこちらのお祭りしようということに、いつの時代からか、なったらしいんですね。今は、霊山寺の観音様のお祭りの日にこのお祭りをやっております。」
「ここで行われるお祭りというのは、どんなものなんですか。」
「この当番の班の人がだいたい20軒ぐらいで、その人たちが全部出てきまして、保蟹寺(ほうかいじ)の和尚さんが来てお経をあげてもらって。そして、以前はおばあさんたちがお念仏をやったんですよ。最近は念仏をやるおばあさんが亡くなっちゃったので、その代わりに近所のが大勢集まりますので、来たお客さんに餅まきしたりなんかして、そういって賑やかしをやって、後でみんなで簡単に一炊(いっすい)をやりまして、それがお祭りです。」
各地に梶原のご縁があることから、遠くからここを訪ねてくる人も少なくないようです。
「全国いろんなところに梶原という、このご縁があるということでしたけれども、遠くからお見えになる方もいらっしゃるんですか。」
「結構ね、ここを見に来てくれる人、多くいらっしゃいますよ。遠くから、いつかは島根県の人たちが来てくださいました。それは梶原景時の相手方の吉川小次郎の方ですね、吉川系の人たちですけどね。ここへお参りしていって下さいました。」
「かつての敵味方が、今は仲良くなっているわけですね。」
「そうそう、そうそう。もうそういういざこざはございませんからね、現在は(笑い)。」