(清水歴史探訪より)
しかし、世の中は、そううまいばっかりにはいかないもので、源頼朝が死んじゃったわけですね。死んじゃうと、源頼朝時代に景時がやりすぎたっていうかなぁ。名将なもので、やりすぎたのかもしれませんけど、反感を買っていた武士がけっこういたんでしょうね。」
「敵も多くできちゃったんですね。」
梶原景時の変
1199年(正治元年)源頼朝が没すると、18歳の長男頼家が家督をつぎます。
その頃、鎌倉の御家人たちの間では梶原景時に対する反感が、高ぶっていました。
「梶原は陰気くさいんだよなあ」 「俺のことも将軍さまに讒言してるんじゃないか」などと。
頼朝が亡くなって間もない1199年(正治元年)11月25日。 鎌倉の侍所では、頼朝公供養のために一万篇の念仏が唱えられていました。その席で、御家人・結城朝光(ゆうきともみつ)がつぶやきました。
「ああ…頼朝公の時代がなつかしい。忠臣は二君に仕えずというが、まったくその通りだ。 今の世は、薄氷を踏むような感じがするよ」
北条政子の妹・阿波局(あわのつぼね)は、その言葉を聞き逃しませんでした。
(忠臣は二君に仕えず……)
阿波局は、結城朝光に伝えます。
「梶原景時殿が、結城殿の言葉をきき、これを謀反のしるしと見て攻め滅ぼそうとしていますよ」
「な、なに!あんなの、他意の無いつぶやきではないか。 梶原殿はそれすら、人を蹴落とす材料にするのか!まったくげじげじ梶原の憎たらしさよ」
「とにかく、こままでは潰されてしまいます。 仲間を集めませんと」
「そうですな。よく知らせてくれました」
「またも梶原の讒言か。われら御家人は、ことごとく梶原の機嫌を取らねばならんのか。もう我慢できん」
結城朝光はすぐに三浦義村にこのことを伝えると、三浦義村も怒り狂います。
三浦義村はすぐに梶原に対する弾劾状を作り、和田義盛、畠山重忠、千葉常胤など梶原に不満を抱く御家人たち66名の署名を得て、これを政所別当・大江広元に提出します。
「うむむ…」
大江広元は幕府の長老的な人物ですが、もともと梶原びいきであり、弾劾状の提出をしぶりました。そこへ、和田義盛がはっぱをかけます。
「大江殿、何をぐずぐずしておられる。早く将軍家に提出してくだされ」
「くっ…仕方がない」
大江広元はしぶしぶ、弾劾状を頼家に提出しました。
11月12日。頼家は梶原景時を召しだします。
「そのほう、ずいぶん嫌われておるのう。大勢が、梶原出て行けと申しておるぞ! 何か申し開きしたきことは無いか」
「何も、ございません。それがしは謹慎いたします」
梶原は所領地である相模国一宮(神奈川県寒川町)に引きこもってしまいます。
その後、一度は鎌倉に復帰しましたが、すぐに御家人たちは梶原へ鎌倉追放令を出し、和田義盛、三浦義村両名が梶原追放を指揮し、鎌倉の梶原の館を叩き壊します。
また、梶原は播磨国の守護でしたが、守護職を解かれ、かわって小山朝政が播磨守護職に任命されました。こうして鎌倉における梶原の居所はなくなります。梶原は一族郎党引き連れて、鎌倉を後にしました。
左大臣ドットコムより
「できちゃったんでしょうね。頼朝が死ぬと同時に、今度はその反感の勢力が強くなっちゃいましてね。ついに鎌倉を追い出されたわけなんです。
その時の1月19日に鎌倉の方を逃げ出しまして、駿河の方、京都へ向かう。要するに、京都の西国(さいごく)へ行くと、本来、景時は西国の出の人ですからね、向こうへ行くと、自分の家来はいっぱいいるはずだったようですね。それを頼りに西国へ逃げ延びようとして、東海道を西へ下がったんです。
そして待ち受けたのは、この駿河の国の清水付近ですよね。するとそこに待ち受けたのが、吉川(きっかわ)小次郎をはじめとする入江族とか、地侍が鎌倉からの連絡をその前に受けたわけですよね。それで待ち受けて、戦闘が始まったわけです。そういういきさつですね。」
梶原滅亡
翌1200年(正治2年)。梶原は一族引き連れて東海道を西へ向かっていました。 上洛を目指していたのです。京都に向かっていました。
なぜ、この時梶原が京都を目指していたか?はっきりしたことはわかりません。
ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ
梶原一行が駿河国清見関(現静岡県清水市)にさしかかった時、 街道脇からわらわらわらっと現れた軍馬の群れがありました。
「梶原殿」
「お…おうおう、誰かと思えば、飯田家義殿ではないか。どうなされた、こんな所で」
「それはこちらの台詞。聞けば梶原殿は、京都で別の将軍を打ちたて、鎌倉を攻め滅ぼそうという腹だとか。わ殿とは頼朝公旗揚げ以来のよしみではあるが、 鎌倉の御家人として、そのうな暴挙、見逃すわけにゆかぬ。いざ、お覚悟」
「ぐぬぬ…。北条の犬と成り下がったか。この戦力差ではどうにもならぬ。だがわしとて坂東武者のはしくれ。ただでは死なぬ。ぬかるな景季、景高、景茂」
「はいっ父上」
どかか、どかか、どかか、どかか、キン、カン、キキーン
激しい合戦となりますが、その場で三男の景茂が討たれ、 景時は嫡子景季と次男景高とともに山中に駆け込みますが、 追手に追いつかれ、激しい戦いの末、首かっ斬られ、 梶原一族33名の首は路上に懸けられました。
頼朝の懐刀として権力をふるった梶原景時の、あっけない最期でした。
梶原景時失脚は北条氏による陰謀の線が濃厚です。そもそも梶原が結城朝光を讒言したと言い出したのは北条政子の妹阿波局です。
実際に梶原がそんなことをしたかどうかは、わかりません。もしかしたら、ぜんぶ梶原を陥れるための捏造だったかもしれません。
そして、梶原が討たれた駿河国は、 北条時政が守護をつとめる国です。
こうしたことから、北条時政が政敵となりうる梶原景時を陥れるための謀略だったと見るのが有力な説です。
左大臣ドットコムより
「吉川とか、入江とかという名前が出てきましたけれども、今も地名に残っていますね。」
「吉川という地名がありますけどね、あそこに吉川さんという人はね、今二軒しかないんです。本家と分家とその二軒しかないんです。入江は、どうか知りませんけれどね。」
「昔から、その頃から地名、名前が受け継がれてきているわけなんですね。」
「そうですね。地侍の地名が残っている飯田なんとかとか、その時の地侍大勢いますけどね。」
「梶原景時はこの地まで逃れてきて、ここでどんな戦いがあったんですか。」
「吉川一族を始めとする駿河勢が、それを待ち受けていました。
このへんは要するに水はけの悪いどぶっ田(=沼地)だったんですね。葦(あし)がいっぱい生えておりましてね、そう簡単に走れる(動ける)時代じゃないようでした。
昔の巴川がうねりを打ったような名前だったんですからね。そういった地名ですから、そこを何とかして逃げ延びて、大内のこの地面の固いところまで来たんでしょうねぇ。そこまで追い詰められたんじゃないですかね。そしていよいよ最後だというわけで、この裏の山へ梶原一族は逃げた。
山へ登って、いよいよこれで最後だというわけで、一族がそこでもって、今でいう『鬢水(びんみず)』というところが、その山のちょっと下にありますけど、そこで鬢(びん)を洗って辞世の句を書いた。
ここに書いてある
『もつのふ(武士)の かくこ(覚悟)もかかる 時にこそ
心の知らぬ 名のみを(惜)しけれ』
という辞世の句を残して、自害したわけです。
(注)梶原堂では、『心の知らぬ』が『人こそ知らぬ』となっております。
それが最後ですね。ここが終焉の地でございます。」
「『鬢水』というお話が今ありましたけれども、『鬢』というのは、どういうものなのでしょうか。」
「『鬢』というのは、髪の毛ですよ。髪の毛が乱れているのを直して、それで自害する、それが礼儀というか、そういうものでしょうね。」
「今もその場所というのは残っているんですか。」
鬢水の史跡
「残っています。水がちょろちょろ出ています。だいぶ山の方は荒れちゃって、あまり水は出ていませんけどね、この頃はちゃんと説明図も書いてありますし。」
景時が源頼朝を救ったと伝えられる、しとどの窟(いわや)は、現在の神奈川県足柄下郡湯河原町の山間部にあって、歴史を偲ぶ観光地となっています。
観光地『ししどの窟(いわや)』
現在の清水区高橋や狐ヶ崎周辺(現在の静岡市曲金)なども、その舞台になったと伝えられています。景時一行が巴川による湿地帯での苦戦の末、ようやく足場のしっかりした場所にたどり着いたのが、梶原堂の残るこの地だったのです。
「首を収めたところというのは、高橋にあるんです。そこに山梨さんっていうお宅があるんです。梶原の高橋に高源寺(こうげんじ)というお寺さんがありまして、そこで晒し首を祀ったという話があります。そしてその山梨さんのお屋敷にね、お墓がたくさんあるんです。それは梶原のお墓だとは言われていますけれどね。向こうで首実検(くびじっけん)ありまして。」
「高橋の方と、それから、こちらの梶原堂とかなり広い範囲でいろいろなことが行われていたわけですね。」
「そうですねぇ。昔から祀っていたんですよね。それが未だに続いているわけですね、何百年経ってもね。」
「龍泉寺(りゅうせんじ)というのがあったんです。このお寺が、経営が成り立たなくなっちゃったんですよね。保蟹寺(ほうかいじ)というお寺と、桃林寺(とうりんじ)というお寺があるんです、2つね。その勢力がある保蟹寺がこれを引き取ったんじゃないかなと思って、現在、保蟹寺の寺領(じりょう)として扱っているんです。寺領というのは保蟹寺のお屋敷ですね。」