(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
清水区の西部、葵区との境に近い、北街道沿いに広がる閑静な大内地区。この山側の一角に、小さなお堂がたたずんでいます。ここには、鎌倉時代初期の、ある武将が祀られています。
このお堂の管理にあたっている、設楽斉(したらひとし)さんに伺いました。
「住宅地の真ん中に、静かな一角があるんですが、ここはどういう場所なんでしょうか。」
「ここはいわゆる梶原堂といいまして、梶原堂の境内なんですね。
今はきれいになっていますけど、本来はここは山だったんですよ。北街道そこにあるでしょ。北街道まで、山でずっといっていたんです。だから、今ここに立っているのは、土の中なんです、昔の土の中。こちらが田んぼになっていまして、ここまで山になっていました。
その山の中腹に、梶原堂というお堂があったんですね。要するに、龍泉寺というお寺なんですけれどね。その一角に祀られていたんです。
それが終戦後、そこに材木団地ができたんですが、この土をとって結局、材木団地の埋め土に使っていたのだろうと思うんですけれど。終戦後、山を削っちゃったんです。そうして、その真下へ、真下へこれが下りてきたんです。そういうところなんです、ここは。」
梶原景時の遺跡
もとは、梶原山龍泉院と云うお寺で梶原平三景時公を本尊として、その一族をまつるために建てられました。その時期は、景時公一族が鎌倉を脱出し上方に向う途中、この地で戦い全滅した、正治二年二月二十日(一二〇〇年)から一六〇年経った、延文五年十二月二十八日(一三六〇年)のことです。
この時、景時公の八代の孫、梶原景慶は、駿河に赴任して来ました。景慶は、足利尊氏の弟、直義の援助を得て、矢崎山の山腹に龍泉院を建て、法名を龍泉院殿梶勝原公大居士とおくり名し景時公をまつりました。それから六二二年経た、文政五年(一八二二年)に龍泉院は火災にかかり全焼しました。
(注)HPの読者から指摘がありました。正しくは源であります。案内看板が間違っております。
鉄筋の御堂は、この時新しく建てられたもので中には、景時公、頼朝公の二位牌と如意輪観音像・毘沙門天像(鎌倉時代の作品)しか収められていません。その横の形に崩れた三基の墓は、景時公・景季公・景高公の墓です。昭和五年頃は、墓も刻字もしっかりしていて、延文五年十二月二十八日の刻字がある宝篋印塔でした。丸い石を中にした五輪の塔は、供養塔です。明治四年の寺社検地で、龍泉院は廃寺となって以来牛ヶ谷区・矢崎区の信徒により梶原祭りとして、毎年旧暦二月二十八日に祭典をして来ましたが、昭和二十八年より新暦の三月三日に祭典を行なっています。梶原出高、梶原山頂には、梶原親子の碑と鬢水(びんすい)といわれる遺跡があります。
景時公の辞世
もののふの覚悟はかかる時にこそ
人こそしらぬ名こそおしけれ
鎌倉を創設した、頼朝公の重臣景時公は波瀾万丈の一生を其の一族共にこの地につきぬ恨みを呑んで散りました。
昭和56年高部まちづくりの会
「鎌倉時代の名将なんですね。梶原景時はもともとは平氏のほう、源氏のほうではなく平家のほうなんですね。
それが頼朝が伊豆で、兵を起こしたわけですよ。平家に対して。
源頼朝の挙兵
治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子である以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。しかし平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意すると、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた。
最初の標的は伊豆国目代・山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日、頼朝の命で北条時政らが韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取った。
伊豆を制圧した頼朝は相模国土肥郷へ向かう。従った者は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が頼朝に参じるべく三浦を発した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
というのは、昔の話では、先ほどのほら穴みたいなところがあるんですよね。そこへ頼朝が隠れた。そこに隠れたのを景時は知っていたんだけれども、そこにたまたま蜘蛛の巣がはっていた。『この中に入るはずはない』というわけで、この中を探させなかった。そこで、源頼朝は命拾いをした。その命拾いを助けたのが、梶原景時なんです。
ウィキペディアには次のように記載されております。
大庭軍は山中をくまなく捜索した。大庭軍に梶原景時という武士がいて、頼朝の居場所を知るが情をもってこれを隠し、この山に人跡なく、向こうの山が怪しいと景親らを導き、頼朝の命を救った。このことが縁で後に景時は頼朝から重用されることになる。土肥の椙山のしとどの窟(写真)がこのエピソードにまつわる伝説の地として伝わっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そういう関係で、今度は源頼朝に景時が認められて、最後は頼朝の第一番の家来になった。一番番頭になったんですよね。そういう生い立ちですね、梶原景時という人は。それで鎌倉時代がどんどん繁栄する中において、彼は実権を握っていったわけです。