5.京都・大阪間の宿場
(清水歴史探訪より)
「京都・大坂間ですが、どんな宿があるんでしょう。」
「これは、今はもう京都市になっておりますが、
伏見といえば伏見稲荷
寺田屋
伏見という宿、これは東海道57次で一番大きかったんですね。今でもお酒を作る工場やなんかもありますけれども、水がいいということで、そして多くの人が住んでいて、全国の方がご存じだと思いますが、寺田屋という船宿がありました。坂本龍馬が定宿(じょうやど)としていたところですけれども。
ここに『銀座役所跡』という碑が今でもございますが、ここが日本の銀座発祥の地でございます。そんなことで、江戸時代、色んな意味で伏見が中心でございました。この宿場が54番目の宿です。
淀君
淀城
そして、その近くに淀の宿というのがございます。
淀君がいたということで知られているところですが、最後のお城はこの淀君が住んでいた城ではなくて、江戸時代になって作り直した城でございますが、その石垣が残っております。
ただ、残念ながら、戊辰戦争でこの宿は全部焼けてしまいましたので、宿場らしい遺構は他にはございません。
枚方駅周辺
枚方宿案内図
船宿鍵屋
さらにいきますと、牧方(枚方)の宿がございます。ちょうど京都・大坂の中間ぐらいでございますけれども、ここには大きな船宿鍵屋さんというのがそのまま残されております。
京阪守口駅周辺
守口宿
第57番 守口宿
さらにいきますと、守口、これが57番目の最後の宿でございますが、守口の宿があって、そこから2里8キロいったところが大坂でございます。」
枚方宿の今昔
東海道宿々申合連合帳
東海道守口宿助郷人足勤方控
御貸附利金書上帳
「実際に証明するような遺物というのは残っているんでしょうか。」
「はい。枚方と守口には一般の町民が残された帳簿がたくさん残っております。東海道枚方宿、あるいは東海道守口宿と書いた帳簿がたくさんございますので、多くの町民の方が自分のところを通っている街道は東海道だと認識していた、これがはっきりした証拠でございます。」
東海道分間延絵図・髭茶屋追分周辺(通称大津追分)
左上の道は京都へ、左への道は大坂へ
「公的な書類はあるんでしょうか。」
「はい。幕府は東海道含めて主要な街道について地図を作らせました。
文化3年に完成した『東海道分間延絵図(とうかいどうぶんげんのべえず)』というのがございますが、これも東海道について1800分の1に縮小しながら描かせたものが残っております。
全部で13巻あるんですが、第12巻のところに京都へ行く東海道と、大坂へ行く東海道の2つがはっきり分かれているのが描かれています。
第13巻目には、表紙に『牧方宿・守口宿・大坂』と書いてございます。そういうことで、地図として、東海道は大阪までということをはっきり残しております。
写真は、東海道分延絵図控え・第13巻の表紙
(牧方、守口、大坂)
さらに、天保14年に、やはり主要な街道について全部人口の調査、あるいは旅籠(はたご)、本陣、そういうような主要なものについて全部調査しております。
その記録が『東海道宿村大概帳(とうかいどうしゅくそんだいがいちょう)』ということで安政年間に完成しています。
すべて57記載されています。
写真は、東海道宿尊大外帳の第12巻表紙
(伏見宿・淀宿が納められている)
古文書(こもんじょ)を見ていますと、幕府に問い合わせをしている人が結構いるんですね。
やはり、街道を管理する人たちが東海道について、正確にどういうことかという問合せ。その回答文書がやはり残っているのですね。
そうすると、道中奉行(どうちゅうぶぎょう)とか幕府の街道関係の方が、『東海道は、品川宿から守口宿』という風なことで、はっきり守口と書いてございます。
そういう意味で、先ほどの地図とか、あるいは『宿村大概帳』という記録以外にも手紙のやり取りで57ということを答えている、ということが分かっております。
このことから、幕府は、東海道はすべて大坂までとして、57管理していたということがはっきりするわけでございます。
中山道につきましても、広重は『木曽街道69次』という絵を出しましたので、中山道は69と思っておられる方が多いんです。しかし、実際には幕府の記録は全部、草津の手前で中山道は終わり、草津で東海道と合流するという解釈をして、宿場の数は板橋から出発して守山までの67という風に記載しております。そういう意味では東海道が57次、そして中山道が67次でございます。」
木曽街道67次・守山(中山道)
木曽街道68次・草津追分(中山道?)
木曽街道69次・大津(中山道?)
「これからは東海道全線数えると、57次であったというのを覚えておかなければいけませんね。」
「そうですね。一部の高等学校の教科書あたりは東海道が大坂までの『57次』と書き始めましたし、大学受験用の雑誌には『57次』、とはっきり地図も載せて書いているものも出ております。そういう意味で、これからは、広重はその一部しか描かなかったんだ、と。本当は大阪までだったんだという風に、正しく歴史というのは伝えた方がいいんじゃないかな、と思っております。」