(清水歴史探訪より)
「蒲原宿というのは、いくつ目になるんですか。」
「品川を第一で数えますと、15番目でございます。」
「このあたりは大きな変動はなかったんですか。」
「そうですね。ただ、津波等で、街道を移すところは何箇所もございました。蒲原の場合にも、元禄12年に高波で被災しておりますので、東海道を少し山側へ移しました。海から遠ざけたわけでございます。
お隣の吉原の宿は3つ宿場の跡が残っておりますし、白須賀(しらすが・静岡県)にも昔太平洋に近かった街道が、潮見坂(しおみざか・静岡県)を超えて上の方に移ったという記録もございます。
お 隣 の 吉 原 宿
吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、1639年(寛永16年)の津波により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原)。しかし1680年(延宝8年)8月6日の津波により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に移転した。このため原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、"左富士"と呼ばれる景勝地となった。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は1本の松の木が残るのみである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白須賀宿(しらすかしゅく)は、東海道五十七次の32番目の宿場である。
元々は海岸近くにあったが、宝永4年(1707年)に発生した宝永地震と津波により大きな被害を受けたため、その後潮見坂の上の高台にある現在地に移された。天保年間の記録では旅籠が27軒と、宿場としては中規模である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』そんなことで、宿場そのものは中で移動する、その地域で移動することはございますが、いわゆる人馬継立て(じんばつぎたて・人足、あるいは馬を用意して隣の宿場まで旅人を運ぶという仕事)をする権利を与えられたのは庄野の宿が最後でございますので、それ以降、東海道の数は変わっておりません。」
写真は、庄野宿の人馬継立て(宿継)図
「同じ宿場町の中でも、例えば府中などは大きな宿場ですけれども、この蒲原とか由比といったのはどの程度のランク付けになるのでしょう。」
「蒲原は平均よりはちょっと小さかったようでございますが、あるいは一番大きかったのは伏見の宿でございますが、人口ですと2万人を超しました。そういう大きなところがございますので、大ざっぱに言って中程度ということでございました。
ただ、由比の場合には山と海が接近していましたので、人口が天保14年でも700人ちょっとで、小さい方でございました。」
「よく間(あい)の宿という言われ方もしますが。」
「間の宿というのは、宿場と宿場の間にちょっとですね、お茶屋さんが並んで、宿場のような形をなしているところを一般的に『間の宿』と申すわけでございます。
ちょっとお茶屋さんが2、3軒しかないところを普通、『立場(たてば)』と申します。
お茶屋さんが集まったり、あるいは、旅人に草鞋(わらじ)を売ったり合羽(かっぱ)を売ったりというような店が並んで町のような形になりますと、間の宿ということになったわけでございます。間の宿は休憩することはよろしいのですが、人馬継立て(じんばつぎたて)をやりませんので、旅人を泊めることが認められず、旅籠屋(はたごや)なんかはなかったわけです。
したがって、宿場としてはカウントされておりませんので、京都までの53、大阪までの57を数える場合には入っておりません。」