第三十五話 梶原景時の終焉の地『梶原堂』
梶原堂
住 所 静岡県静岡市清水区大内841-64
管 理 寺 保蟹寺(ほうかいじ)
静岡市清水区大内539
※大内観音バス停から歩いて7分
関連するお寺 高源寺
静岡市清水区高橋2丁目7番4号
※高橋バス停から歩いて4分
目 次
この本のカスタマーレビューを見ますと、批判的なレビューでは『子孫が、先祖の汚名を払拭したくて描いているだけの自己満足的な本だ』と記載されておりました。
しかし、もっとも参考になったという意見は『小説ではなく著者が調査してきたことが淡々と記載している。梶原景時というと、悪人のイメージが強いですが、有能な武士であり、頼朝に忠実であったことが分かります。多くの武人を救った例もあり、人間的にも、悪人ではなかったことが分かります。著者は景時のことを語る一方で、全国の梶原家と関係する史跡、特に梶原景季の墓が意外なところにあるのが、面白かったです。』と記載されております。
なお、梶原景時は歌舞伎では『梶原平三誉石切(ほまれのいしきり)』が有名です。ここでは、梶原景時は正義の主人公として扱われており時代によって評価が違うのかもしれません。
住宅地の真っただ中に『梶原堂』があります。今では老人憩いの場として使われているようで、移動式のトイレが玄関の前にドデンとあり気になりました。苦労して写真では気にならないように撮ってみました。
もともとは、梶原景時が自殺した梶原山の中腹にあったようですが、造成工事の関係で現在の場所に移ったようです。今の天皇陛下も皇太子の時にお詣りに来たのでしょうか、天皇陛下の植えた杉の木がありました。
梶原景時は、相模国一宮(神奈川県寒川町)にいったんは、引きこもった後、鎌倉に復帰したが『鎌倉追放令』が出たため鎌倉を後にします。
そして、この清水の地で地元武士団に襲われて最後は自殺いたします。襲われたのは偶然なのか?それとも鎌倉から命令が届いていたのか?
梶原景時終焉の地・清水には、梶原景時の足跡があちらこちらに残っております。
梶原景時の嫡男・梶原景季(かげすえ)の愛馬・磨墨は、1184年(寿永3)の宇治川の戦いで、佐々木高綱の名馬・池月(いけづき)と先陣を争った(宇治川の先陣争い)。
その磨墨を葬った場所と称する所は日本各地にあります。また、梶原山でもお尻を向けて山を登ったとのいわれがあります。磨墨(するすみ)の年齢から考えてこの時の磨墨は3代目か4代目と思われます。
梶原景時の旧跡は全国各地にあります。その中でも、エ~と思うところが、淡路島の南にある沼島(ぬしま)という南あわじ市に属する島と鹿児島県の東シナ海の甑島(こしきしま)という薩摩川内(せんだい)市に属する島です。
こんな所にもある梶原景時の旧跡は、全国各地にあるようです。けっこう、梶原景時は有名人なのですね。
老人いこいの家となっている梶原堂の横には、『毘沙門堂』と呼ばれる建物があります。この中には、毘沙門天・源頼朝の位牌・如意輪観音・梶原景時の位牌があります。これらのものは、梶原景時が亡くなった直後からあるようです。しかも、もしかしたら北条政子から拝領したかもしれないそうです。
さらに、五輪塔(供養塔)をはじめに4つの墓があります。これらも梶原景時が亡くなった直後からのもののようです。
いつの間にかハイキングコースとなった梶原山。梶原景時が亡くなった梶原山山頂は、梶原絶頂と呼ばれております。まさに山頂の眺めは絶頂であります。梶原絶頂で、無念の切腹をした梶原景時に思いをはせ、閑静な住宅街にある梶原堂を後に、帰宅いたしました。
いつの間にか『梶原景時』の名前を知っている人が減少していきますが、梶原山の夜景はますます絶頂であります。