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11.清水次郎長と明治維新
田口栄爾先生著
 

第四章 明治の次郎長

明治12年頃、天田五郎が撮った次郎長の写真
徳川慶喜撮影・明治20年代の清水港(茨城県立歴史館蔵)
天野五郎撮影・向島から対岸の次郎長宅(二階家)を写す(明治10年代)
大正時代の清水港波止場。中央二階家が次郎長の船宿末廣

1.    最後の将軍慶喜の身辺警固

明治2年(186912月清水次郎長は、最後の将軍徳川慶喜公の警固役を自任する新門辰五郎と会見する。この頃から慶喜公は趣味の投網のためしばしば清水港を訪れていた。 

 新門辰五郎はすでに七十歳、慶喜公の護衛役を次郎長に託すための会見と思われる。

慶喜公は次郎長に警固の労に対して『のしめ』と呼ばれる裃(かみしも)の下につける礼服を送っている。

 

写真は、新門辰五郎。 

新門辰五郎(寛政12年?(1800 - 明治8年(1875)) 

 江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番。娘のお芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾となる。新門辰五郎はお芳が慶喜の妾となったことで元治元年(1864)に禁裏御守衛総督に任じられ、慶喜が京都へ上洛する際、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行った。

 明治維新以降は、慶喜が新村信、中根幸以外のお芳を含む側室に暇を与えた。

 

2.天田五郎との出会い

 明治1111月初め、静岡伝馬町の旅館において山岡鉄舟は、二十代なかばの天田五郎と還暦近い次郎長を引き合わせた。天田五郎は磐城平(いわきたいら)城が戊辰戦争(ぼしんせんそう)で落城してから父母と妹の行方を探しており、次郎長のネットワークで探して欲しいとのことであった。 

 
 この天田五郎は後に短い期間であったが次郎長の養子になり、『東海遊侠伝』を書き次郎長を世に売り出したのである。
 
 
 
写真は、禅僧となった愚案・天田五郎
 

天田 愚庵(嘉永7年(1854 - 明治37年(1904))

 江戸時代末期(幕末)から明治にかけての武士、歌人で、本名、天田五郎、1881年から1884年まで山本五郎。漢詩や和歌に優れ、俳人正岡子規にも影響を与えた。生まれ故郷のJRいわき駅から程近い「松ヶ岡公園」には、天田愚案の銅像があります。

3.    天田五郎の遍歴

天田五郎は明治11年暮れから『東海遊侠伝』執筆、明治12年写真師・江崎礼二の門下生となり、写真家となる。明治14年、次郎長の養子となっていた大政が死亡、その後の後継者として次郎長の養子となった。次郎長の経営する富士山裾野の開墾事業の監督を務めたが、事業は不振を極めて閉鎖、明治17年には養子を辞した。

 
 その後、禅僧となり愚庵と号した。『巡礼日記』は愚案の名作である。 

 

 

写真は、天田五郎より次郎長宛ての書簡 

 

この手紙の中で、①五郎は写真術を習得するため写真師江崎礼二の弟子になったことと ②山岡鉄舟先生の家により「東海遊侠伝」の原稿を預けたところ、借り手が多くて困っていること などが記載されている。

 


4.    謎の人物白井音次郎

徳川慶喜公の家臣、それも身分の低い人、にもかかわらず向島の土地31,000坪を全部で60円強(現在の120万円程度)で払い下げしてもらった人物がいる。

 その名は、白井音次郎。向島31,000坪は、現在の清水港から清水区役所周辺がすっぽりと入る大きさである。あまりにも安い金額での払い下げで県庁に抗議したところ「徳川家のことであるから」と説得されたそうである。
 
 
写真は、明治8年、白井音次郎が払い下げを受けた
向島3万坪の土地絵図面

江戸城の無血開城と江戸総攻撃回避、このための事前交渉に勝海舟は山岡鉄舟を駿府に派遣した。山岡鉄舟はこの時、薩摩藩士益満休之助を随行させた。一方、官軍先鋒隊の隊長は薩摩藩士篠原国幹である。山岡鉄舟が無事に先鋒隊を通り抜けるために、益満休之助は篠原国幹に事前に一通の手紙を託していたのである。実はこの手紙を届けたのが、白井音次郎だったのである。

白井音次郎の「洗礼記録」が静岡市春日町のハリスト正教会に残っていた。白井音次郎はロシア正教会に入信し、司祭ニコライによって家族ともども洗礼まで受けていた。

写真は、鉄舟寺

 その後、白井音次郎は次郎長の隣に住む魚問屋『芝栄』の芝野栄七と土地所有権をめぐり裁判を起こしている。そこには、次郎長もからんでいたようである。裁判の経緯は不明であるが、芝野栄七の手には原告の白井音次郎から1,500円の示談金が支払われ、久能寺の本堂が建立され、次郎長の坐像が鉄舟寺に寄贈された。なお、この時には、山岡鉄舟も清水次郎長も他界していたのである。

白井音次郎は娘シゲ(養女)の嫁いだ真崎常太郎(ロシア正教神父)と供に四国徳島に移住し、そこに洗礼名「ユリアン」の墓が建っている。

謎の人物、白井音次郎は徳川慶喜公のお庭番(隠密)だったと田口先生は推測している

写真は、明治34年、鉄舟寺に寄進した次郎長坐像

5. 富士開墾と相良油田

 次郎長の社会事業の中に、富士裾野開墾事業がある。囚人を使ってのかなり大掛かりな事業で、お茶の栽培を目指したようであったが、当時は寒冷地に向く品種がなく見事に失敗してしまった。

 開墾地の現場監督には大政(次郎長の養子となって、山本政五郎)が当たったが、明治13年に亡くなってしまった。その後、天田五郎が次郎長の養子になって現場監督となったが、事業は不振を極めて閉鎖してしまった。

 さらに、次郎長は相良の油田開発にも協力したが、採算が合わなかったようである。

 

 

写真は、富士の裾野・次郎長開墾地(富士市大渕)

6.英語塾とハワイさん

 徳川幕臣の静岡移住と供に、教授達も静岡学問所に移り、明治始めの静岡は英語の先進県だったようである。その影響か、次郎長も英語塾を開いた。 

 この影響を受けた三保村の川口源吉は、単身ハワイに移住、10年後の明治23年(1890)帰国し、成功者のシンボルとして「ハワイさん」と呼ばれるようになった。翌年には、川口栄次郎らが渡航し、以降、続々とハワイや北米で出稼ぎに行ったのである。
 
 
写真は、ハワイさんと呼ばれた川口源吉

7.次郎長を支えたおちょう

次郎長の3人の妻は、3人とも『おちょう』。初代は大熊の妹『おちよ』がなまっておちょう。2代目は本名『はな』、『てふ』と改称。3代目は本名『けん』武家の娘で子連れであった。 

明治に入ってからの次郎長を支えたのがこの3代目のおちょうだったのである。3代目おちょうは富士の開墾に付き添って現場生活を送り、次郎長が捕まってからは次郎長の親戚にいじめられながらの家計の切り盛りは、おちょうの手記に克明に記されている。

 

 

写真は、三代目おちょうの覚書(明治17年)

8. 次郎長の終焉

 明治26年、ふとした風邪がもとで次郎長は病床に臥し、おちょうの手を握りながら74年にわたる生涯を閉じたのである。

 

 

 

 

写真は、清水次郎長の位牌

明治42年6月12日、梅陰寺で行われた次郎長17回忌の参列者。前列左から4人目が三代目おちょう。その左が長男入谷清太郎。向かって右隣りが当目の岩吉。前列左から2人目が関東市こと加藤一五郎。前列右から3人目が次郎長一家二代目を継いだ小沢惣太郎。入谷麟助は二列目おちょうと清太郎の間
晩年の三代目おちょう(左端)。右へ養女山本けん、孫小島茂、入谷はる、長男入谷清太郎(大正4年)
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