第三章 明治元年の清水港
1.大変革------------------伏谷如水の抜擢
慶応4年(1868)は元号が明治と変わった年である。この年、次郎長は49歳、旅先の常住先の三河寺津(愛知県西尾市)から清水に戻っており、2代目おちょう(本名:おはな)をめとっていた。
突然、次郎長は浜松藩家老で駿府の市政をつかさどる伏谷如水から出頭を命じられた。覚悟を決めた次郎長に、伏谷如水は『沿道警固役』を仰せつけたのである。
写真は、伏谷如水の家中、間野隆太より次郎長宛ての手紙
2.清水港警固
いわゆる反社会的勢力の中心人物であった清水次郎長は、過去の罪状はすべて帳消しされ、破格の帯刀まで許された。明治元年4月から6月にかけての3カ月であったが、次郎長は清水港の警固にあたったのである。
3.徳川幕臣の移住
明治元年7月徳川慶喜が旧幕府軍艦に乗って清水港を通って駿府宝台院に入ってきました。その護衛役が、江戸町火消の頭・新門辰五郎である。次いで、8月駿府藩主徳川家達(当時6歳)が駿府城に着任。
その後、江戸から徳川家臣とその家族がやってきた。江戸からの移住者は10万人に近いと言われている。次郎長は、移住幕臣たちの世話を熱心に行っていたそうである。
写真は、清水港へ移住の幕臣たちを運んだゴールデンエージ号
4.咸臨丸事件
明治元年9月2日、自力では航行不能な老朽化した咸臨丸が修理のため清水港に入港。そこへ、9月18日新政府軍艦が襲撃。咸臨丸は拿捕され、品川まで曳行された。海中には徳川家臣の遺体が浮遊していた。
元清水港の警固役の次郎長は、月明かりで遺体を引き上げ、当時は砂っ原だった向島に埋葬した。現在は、山岡鉄舟が揮毫した『壮士の墓』である。
写真は、咸臨丸
5.咸臨丸余聞
咸臨丸は、安政4年(1857)オランダで建造され、万延元年(1860)には日米修好条約批准のため度米、明治元年(1868)の咸臨丸事件の後、2本の帆柱が復元、北海道開拓使の御用船として活躍した後、明治4年(1871)北海道サラキ崎で座礁した。
6.駿州赤心隊事件
明治元年の12月咸臨丸事件の後、三保神社の神官が襲われその5日後草薙神社の神官が襲われた。実は、この両名駿州赤心隊という王政復古に共鳴した神官達の軍隊に所属しており、犯人は徳川浪士であることは明白であった。
処理を誤れば駿府藩が取り潰しになるかもしれない、一方、被害者側も神官職の継承問題があった。この駿州赤心隊事件の後始末に次郎長は深くかかわり、神官継承のため清水と三島大社の間を往復、一方徳川家とも連絡を密にしたようである。
結果、犯人は獄死、神官承継は成功した。
写真は、明治初年の次郎長と子分たち。
前列左から3人目が次郎長。
翌明治2年二代目おちょうが徳川の浪士らしい男に斬られ殺されてしまった。駿州赤心隊事件とのからみで、次郎長の身代わりとして殺されたようである。