第2章旅から旅へ(天保13~明治元年)
--------------------切った張ったの時代-----------------
1.寺津でのプロの修行
次郎長、江尻の熊五郎、庵原の広吉の3人は見送りの府中の金八と別れ、(愛知県の)岡崎に向った。文無しの3人は、親分のところへ転がり込むため、茶店で『有名な侠客はだれか?』聞いてみると、備前の浪士で吉良の(小川)武一と今天狗の2人が挙げられた。この今天狗、よくよく聞いてみると三河生まれの治助といって知り合いであった。結局、一行は、(愛知県西尾市の寺津の)治助のところへ逗留し(吉良の)武一の門下生となって剣術を学んだ。
ある日、三州三好の吉左衛門から美濃岩村の七蔵の殺しを依頼されてものの、七蔵の仲間と誤解した七蔵の女房に歓待されて、殺しを諦め、遠州、森の五郎の所に厄介になった。
森の五郎の所で、『ぶそ新』と呼ばれる男と『馬定』のところへ星(借金)の取り立てに行ったところ、次郎長は漁師の櫂をひったくって『馬定』を倒した。この櫂をひったくったことにより、次郎長は漁師に捕まり殺される寸前に、偶然通りかかった顔見知りの駿府の鯉市に命を助けられた。
次郎長が、寺津の治助の所に向かう途中、巴川で殺したはずの佐平に会い、兇状持ちになっていなかったことを知った。
2.庵原川での単独仲裁
凶状持ちになっていなかったことを知った次郎長は、三年ぶりに清水港に帰って来た。
ある日、津向の文吉と和田島の太左衛門が庵原川で喧嘩する寸前になった。この喧嘩、双方ともに『三馬政』にたきつけられた喧嘩で、それを知った次郎長は単独で喧嘩の仲裁に成功したが、『三馬政』の訴えにより、再び太左衛門の子分3人を連れて旅に出ることになった。
写真は、清水の庵原川
3.薄幸の初代おちょう
庵原川の仲裁で売り出した次郎長は、吉良の武一の所に滞在中の賭場で密告に会い武一と伴に逮捕されてしまった。牢屋では牢名主の倉三をやっつけたりしたが、百叩きの刑で釈放された。
その後、次郎長は尾張の大野の賭場で稼いだ金を、相撲とりの八尾ケ嶽の宗七に貸してやり、八尾ケ嶽の宗七を連れて清水に帰って来た。
清水に帰ってきた次郎長は、大熊(江尻の熊五郎)の妹をめとった。次郎長の名声は高く、多くの渡世人が訪ねてきたので、貧乏世帯が続いていた。この頃の事件といえば、八尾ケ嶽の宗七が相撲とり十数人を連れて訪ねて来たことだった。
しかし、甲州の祐典一家と大熊一家の喧嘩により、次郎長はおちょうも連れて三河から尾張まで逃げなくてはならなくなった。本来ならば、次郎長が昔世話をした名古屋にいる(保下田の)久六が、次郎長達の面倒を見るべきなのに(保下田の)久六は全く顔を出さなかった。
写真は初代おちょうの墓(名古屋市平和公園)
代わりに名古屋の長兵衛が面倒みてくれたが、名古屋の長兵衛はすこぶる貧乏で、遂におちょうは息を引き取ってしまった。
さらに、(保下田の)久六は次郎長を密告、その結果、名古屋の長兵衛は次郎長と間違えられて逮捕され獄死してしまったのである。
写真は、次郎長愛用の刀、胴太貫
4.怨敵久六を斬る
怨敵(保下田の)久六が、知多半島の寒村亀崎にいることをつかんだ次郎長、石松、八五郎、大政の4人は、田んぼの中の一本道で久六とその子分を発見した。次郎長らは(保下田の)久六を殺害、子分は散りぢりになって逃げてしまった。
ところが、これからが大変だった。取り手が非常線を張って待ち構えていたのだ。次郎長たちは、すんでのところで役人に捕まりそうになったり、殺されそうになったりしながら清水港に帰って来た。
しかし、清水港も詮議が厳しく、次郎長は子分を連れて高萩の萬次郎に世話になることになった。ここで、無理やり人を斬ったとはっきりわかる刀を研いでもらい、上州を目指して旅だった。
道中、博打ですったり、インチキ博打で稼いだり、役人に追われながら、草津~信濃~越後~加賀~敦賀~四国と旅を重ねた。安政6年(1859)12月、次郎長は駿河に戻って来た。
万延元年(1860)4月、石松は次郎長の代理で讃岐の金比羅神社へ次郎長の刀を奉納しに行った。無事代参をすました石松は、見受山の鎌太郎の所に立ち寄り、おちょうの供養として25両の金を預かった。
石松はその足で、都田の吉兵衛の所により、大事な25両を貸してしまった。都田の吉兵衛はこの金子をとろうと石松をだまし討ちにした。
傷を負った石松は、小松の七五郎に一時はかくまってもらったものの傷口を結んで都田の吉兵衛に襲い掛かった。しかしながら、多勢に無勢、石松は殺されてしまった。
石松といえば、『食いねえ食いねえ』ですね。
文章と関係なくイラストを入れてみました。
一方、次郎長はまたも捕り方に狙われ、子分を連れて西へ向かい、都田の吉兵衛と遭遇した。都田の吉兵衛は石松を殺したことを伏せ次郎長を殺そうとしたが、次郎長は都田の吉兵衛の挙動に不信を持ちつけ入る暇を与えなかった。
真相を究明した次郎長は、逃げる都田の吉兵衛を追うのを諦め清水に向かった。
写真の左は、次郎長の使用した胴着。
写真の右は、大政の使用した胴着。
次郎長は、都田の吉兵衛の兄貴分にあたる大熊(=江尻の熊五郎、おちょうの兄)に都田の吉兵衛の話をしたところ、大熊は都田の吉兵衛へ絶縁する使者を送った。
大熊から義絶された都田の吉兵衛は、仲介者を立ておさめようとしたが、次郎長に拒否された。
次郎長一家が都田の吉兵衛襲撃の計画をしている時、梅陰寺の宏田和尚が来てフグで一杯やることになった。結果、フグにあたり2人が死亡、他の者も中毒となってしまった。
次郎長は、三河の寺津に行き寺津の間之助(寺津の治助の跡取り)の家に身を寄せていた。この寺津では、公家の使いの武士が次郎長、寺津の間之助の両名を召し抱えたいとの話に来たが、次郎長は断ってしまった。
次郎長は、四国から伊勢に回って、赤鬼の金平の親分にあたる丹波屋の伝兵衛に会い、「都田の吉兵衛に加担した赤鬼の金平と一戦交えるつもりだ。」と言ったところ、丹波屋の伝兵衛は和解を勧めた。
結果、菊川で手打ちとなり、丹波屋の伝兵衛、大和田の友蔵らが調停役となり、こちら側が次郎長一家、あちら側は赤鬼の金平一家、黒駒の勝蔵一家であった。
ここで、次郎長の生涯の宿敵、黒駒の勝蔵の登場である。
お尋ね者の黒駒の勝蔵は、黒駒の勝蔵を逮捕を命じられた大和田の友蔵と対立する。大和田の友蔵に夜襲をかけた黒駒の勝蔵は、大和田の友蔵がてごわいとみるや天竜川の西岸に80人余りで陣を張る。これに対して、大和田の友蔵も東岸に100人余りで陣を張る。
双方とも対陣したまま動かず、助勢を頼む。大和田の友蔵は、兄弟分の清水の次郎長に応援を頼み、次郎長一家は兄弟分の石室の重蔵一家と合流して加勢に行く。
この時の次郎長一家は全部で24人だそうで、28人衆というのは一種のごろ合わせだそうである。追分の三五郎などは実在しない人物である。
写真は、次郎長道中です。
毎年、次郎長一家28人衆が踊りに参加します。
8.平井に襲撃、黒駒の勝蔵を逃がす
清水の次郎長一家、大和田の友蔵一家、石室の重蔵一家の連合軍が、西岸に殴り込みをかけようとしたところ、黒駒一家はすでに逃亡済みであった。全隊で黒駒一家を追ったが見つからず、大和田の友蔵の本拠見付に向った。
三河の寺津の間之助の所にいた次郎長に、黒駒の勝蔵が平井の雲風一家に匿われているとの情報が入った。直ちに、次郎長は清水一家と寺津の間之助一家は、平井を襲撃し黒駒の子分6人を殺害したが、黒駒の勝蔵には逃げられてしまった。
写真は、次郎長使用の喧嘩頭巾
黒駒の勝蔵は甲州に潜伏し、資金集めをしていた。この資金集めに反抗した勝沼の三蔵は、清水に応援を頼んだ。清水一家が大挙して来襲すると思った黒駒勝蔵と子分は、妾や女房を置いて逃げてしまった。清水一家の先発隊は妾や女房を捕えた。ところが、勝沼の三蔵の女房は女共を逃がしてしまった。 怒った清水一家の先発隊は、帰ってしまい、これを知った黒駒の勝蔵は勝沼の三蔵を襲った。
次に、信州では川路の鯛鶴(たいつる)と行栗(なめぐり)の初五郎が対立。黒駒の勝蔵は川路の鯛鶴(たいつる)を助け、行栗(なめぐり)の初五郎を襲撃。行栗(なめぐり)の初五郎は清水に逃げ、清水一家の助けを借りて、信州の行栗(なめぐり)に無事、到着した。
さて、伊勢の吉五郎(顔が長いのでな長吉(ながきいち)と呼ばれた)は、清水一家の力を借りて、三河の寺津から四日市に上陸。慶応元年(1865)4月6日、伊勢の高神山の高市に向った。高市では年に一度の大賭博が開かれるのであった。
写真は、荒神山観音寺の火祭り
安濃得(あのとく)には、黒駒の勝蔵、平井の雲風か加勢していた。そして、安濃得(あのとく)の中心的な子分が門之助である。一方、伊勢の吉五郎には、寺津の間之助、清水の次郎長、そして吉良の仁吉が加勢していた。
写真は次郎長対黒駒の勝蔵
山梨県では、アウトローの黒駒の勝蔵で町おこし
荒神山の血闘は、参拝者で賑わう高市の真っ最中、群衆の見物する中行われました。血闘は、結局大政が敵の中心である門之助をかろうじて殺害、次郎長方の勝ちとなった。
写真は黒駒の勝蔵の映画のポスター
黒駒の勝蔵は山梨県では人気があります。
黒駒の勝蔵は、尊王攘夷運動に加担、赤報隊という官軍先鋒に参陣。
赤報隊は偽官軍とされ、その後、黒駒の勝蔵は処刑。
どちらかというと佐幕派の次郎長は生き残り、その後実業家に転身。
慶応2年(1866)12月黒駒の勝蔵の逆襲があった。また、この時の三保の豚松の奮闘は有名である。しかし、次郎長伝の本筋よりはずれるので、詳細はあえて省略する。
慶応3年(1867)10月大政奉還、12月王政復古の大号令。幕末維新の激動は次郎長伝と同時並行に起こっていた。
写真は王政復古の象徴「錦の御旗」