(清水歴史探訪より)
昔の巴川の位置は、今とはだいぶ違っていたようです。
「ここに、昔の地図がございます。これは1807年に江戸幕府が街道筋の調査をやっているんですね。その調査をやって、この『東海道分間延絵図(ぶんかんのべえず)』っていうんですが、細かーくいろいろな建物も1軒ずつ、瓦は瓦風に、木の屋根は木の屋根風に描いてあるものがあるんですが、梅蔭寺さんとかお寺さんの位置は変わっていませんし、美濃輪神社も変わっていないものですから、見ていただきますと、巴川はすごく広くとられていますよね。」
「次郎長さんのお宅があったあたり、生家があったあたりというのは、巴川河口のほうの外れの近くなんですか。」
「そうですね、そうなります。清水の港って書いてあるものは、ちょっと上流の方になりますけれども、江尻宿の少し先に港があって、その港がだんだんだんだんこう広がってきた中にこの生家があるというところですね。この裏に久能街道があって、という形になっていますね。」
(清水歴史探訪より)
この建物も安政の大地震に遭遇しています。
「安政の地震、1854年(嘉永7年~安政元年)に大きな地震があったんですね。その地震ですごくこの辺は動いた場所なんですね。
それで薩埵峠(さったとうげ)の今東海道線が通っているところなんかは、その安政の地震の時に隆起して土地ができたところだと言われているんです(注)。
(注)嘉永7年(1854:この地震で嘉永から安政へと年号が変わった)さった峠は 安政東海地震により崩壊。なお、この地震の影響で直下の海岸が隆起し、海岸線が通行可能になった。
(清水歴史探訪より)
次郎長さんが30代の時にその安政の地震がありますので、安政の地震もその1年間ぐらいの間に何度かいろいろあって、それで被害が広がったりとかしていますので、その1年ぐらいの間に、ということだと思います。(注)」
(注)安政東海・南海地震の余震は2979回も記録され、約9年間続いたという。
「今2階はどのようになっているんでしょう。」
「2階はですね、そのまま畳の部屋として残っているんですけれども、この建物だいぶ古い物ですから、2階に人がたくさん乗っちゃうと、建物が安定感として一抹の不安があるものですから、それは今は(人を)上げないようにしていますけど。」
「何部屋ぐらいあるんですか。」
「広い部屋で、2間(ふたま)と考えてもらっていいですね。18畳ぐらいの大きな、襖を入れなければそのぐらいになります。」
『次郎長生家を調査して思ったこと』より
静岡県建築士会
現在は原則、立ち入り禁止となっているため、使用されていません。改修によって、こういった空きスペースを有効に活用することもできれば、地域の活性化につながる可能性もあり、次郎長生家は単に歴史的な価値だけでなく、地域のまちづくりの中心的存在としての役割も期待されています。また、調査を通じて、所有者もそうなることを希望していることを知りました。この関係は、とても素晴らしいと私は思うのです。
執筆者/志太地区会員 伊藤貴広