(清水歴史探訪より)
建物は、奥へと細長く伸びていきます。
「江戸時代はですね、間口で税金が決まったんですね。ですから、できる限り間口は狭くして奥行きを長くするというような家の造りがあります。そうするとどうしても空気がこもるものですから、真ん中に中庭を設けて、表と裏に通りを設けてそれで風を通すとか、伝統的な日本の町家の造りですね。」
「畳のお部屋があります。色々ありますが。」
「そうですね。ここで食事なんかも全部してたみたいです。
奥に押入れがあるんですが、押入れも普通の庶民の建物ですと明治に入ってから押入れっていうものを作ったんだそうです。
というのも、江戸時代というのは、柳行李(やなぎごおり)っていうのがありますよね。あれ1つくらいにお布団から自分の一年間の着替えとかを入れる。普通の庶民の方っていうのはそのぐらいしか荷物を持っていないらしいんですね。ですから、押入れがあっても入れるものがなかったらしいんですよ。
(清水歴史探訪より)
今は畳になっていますが、その当時は板の間だったので、薄いお布団を敷いてみんな家族で寝ていたということですから、冬はすごく寒かったと思うんですけどね。」
「そして、もう1つ奥の方にお部屋があります。」
「これは仏間になります。だから、2間(ふたま)しかないんですけどもね(笑い)。」
「床の間のところに大きな額がありますが。」
(清水歴史探訪より)
「はい、これが清水の次郎長さんです。ちょうど壮年期というんでしょうか。お仏壇にあるのが、ちょっとお年を召した、ちょっと頭が薄くなっていらっしゃいますけれども、ですから、こちらはちょうど働き盛りの時の絵だと思います。」
「次郎長さんは写真もいくつか残っているようだそうですね。」
「部下の皆さんと写したものとか、何点かはあります。でも、決してかっこいい人ではないんですよね。割と背も小さくて、お顔もなんていうんでしょうか、顎(あご)が張っていてお鼻がドンとしていて目がちっちゃくてっていう・・・。
写真は仏壇の写真
(清水歴史探訪より)
ただ、奥様が、3代目の武家の未亡人がお嫁に来たんですが、その方の辞世(じせい)の句が奥にあるんですが、その句には次のように書いてあるんです。
『頼みなき 此世(このよ)を後に 旅姿(たびすがた)
あの世の人に 会うぞ嬉しき』
これが辞世の句なんですよ。次郎長さんが亡くなってだいぶ経ってからお亡くなりになったんですが、『あの世の人に 会うぞ嬉しき』という風に言う『あの世の人』というのは次郎長さんですよね。
(清水歴史探訪より)
さて、奥の中庭には井戸が残されています。
「ここが次郎長さんが産湯を使ったという井戸なんですよね。
当時もここの場所にあって、家の中に井戸があってここから水をすくって色んなものに使っていたということですよね。
少し後になると、この井戸の横に台所をお作りになって、ちょうどこの中庭のところにお風呂を作ったということで、このあたりがいろいろ変わってはいます、時代の流れで。
今この中庭に造っているのは、もともと明治のころの時代に戻したということになると思いますね。
今は売店になっているんですけれども、持ち主の方にお聞きしますと、その方、今70代の方なんですが、『小さいときはここから船を引っ張り込んで、そしてここで修理をして、そしてまた巴川に戻してた』という話なんですね。
今護岸の整備をしまして、巴川がずいぶん先に護岸があるんですけれども、昔は川って動くものですから、船の出し入れがここからできたという風に聞いてます。」