(清水歴史探訪より)
・・・車の通る音・・・
「では、建物の中、ご案内をお願いします。」
「はい。宜しくお願いします。次郎長さんという方は、お子さんがいらっしゃらなかったものですから、次郎長さん筋の家系の方というのはいないんです。
この家は、次郎長さんの親戚筋であるお兄さんの子孫が残っていまして、その方の持ち物なんですね。そこをうちのNPOが借りて、こういうふうに公開をしております。」
「はい。」
「さて、1階に入ってきまして、ここが土間になっていまして、ここがお店になっていたわけですね。」
「ええ、そうですね。この今一段上がって、土間に木の『板の間』が付いているんですが、これは後から付けたものじゃないかなと思われます。
奥に2間(ま)、畳の部屋があるんですが、畳というものも明治に入ってから普通の庶民の方が使えるようになったっていうことなんです。江戸時代はもともと全部板の間だったのです。江戸時代は、畳が引けるお宅というのはそれなりのお宅だったという風に聞いてます。
この家は、ちょうど30年ぐらい前まで、人が住んでいました。江戸時代から住みやすいように、だんだんだんだん変えていっていると思います。」
「炭を商っていらっしゃったということは、ここに炭なんかが積まれていたわけでしょうか。」
「そうですね、ここちょうど間口が2間(けん)で、土間の大きさも2間(けん)ですから、2間2間の本当にちっちゃなお店だったと思います。」
店先だったところには、当時を偲ぶ品物が展示されています。
「ここには、当時次郎長が使っていたようなものとかがあるんですか。」
「次郎長さんがずっと使っていたというこのキセルとかですね、そういったものが展示してあります。このキセルも、真鍮(しんちゅう)でできているというんでしょうかね、すごく重たいんですよ。だから、どちらかというとこれキセルというよりは、武器に近いのかもしれませんねぇ(笑い)。
こちらがお蝶さんっていって、次郎長さんの奥さんです。実は、次郎長さんの奥様は3人いらっしゃるんです。一番最初の奥さんが『お蝶さん』といいました。次郎長さんが一番苦労して若くて大変だったときに、一緒に色んな事があって逃げて、そこで病気で亡くなった方が、『お蝶さん』だったのです。
ですから、次郎長さんの奥様は、代々全部『お蝶さん』に変えなきゃいけないということになったのです(笑い)。
自分が苦労させて若くして亡くしてしまった奥様を、ずっとこう継承して名前を繋げていくというようなところも、律儀な人だと思いますね。3人目の『お蝶さん』は、武家から出るんですね。その3代目の方の遺品なんかがここにちょっと残っております。」
(清水歴史探訪より)
「その下に何か鎖でできたような物がありますが、これは何なんでしょう。」
「これはね、鎖帷子(くさりかたびら)といって、『切った張った』をやるときに、ある意味そういう意味で鎧なんですね、実用品しか残っていないものですから、どっかで使ったと思います。」
「なぜかここに十手(じって)、捕り方(とりかた:今の警察)なんかが使う十手があるんですが。」
「任侠っていいまして、侠客(きょうきゃく)ともいうんですけれども、情に厚くて、そして世の中の人のために色んなことをやっていく、生き方ですね。
職業としては、すきまみたいな士農工商ではない身分の人たちで、なおかつそれで食っていくために賭場を組んでギャンブルをしていくということなんです。
それが、明治になったら街道警護役っていう、ある意味警察署長さんみたいなものに次郎長さんはなるんです。『街道を行き来する中での罪を犯した人とか、どういう人が通っているかということをチェックしたりとか』っていうようなことをする街道警護役に任命されているんですね。その時のものだと思いますけれども。」
次郎長と伏谷との密接な関係を証明する文書がある。慶応4年5月29日付けの伏谷の家来間野隆太郎から次郎長宛の書簡である。
清水為御警固(ごけいごのため)挙母御藩御人数急速御出張ニ相成御着之上ハ、万事御用等伺ひ無御差支(おさしつかえなく)取斗可申(もうすべし)、右は兼而申達候義ニ有之候間、御蔵開 出船之義も相心得可申、猶(なお)隊長より可承(うけたまわるべく)候、匆々以上
5月廾9日
清水港の警護が挙母(ころも)藩に急遽決まったので、連携して御米蔵の警備、廻船の出港等、従前どおりよろしく取り計らうようにとの書状である。次郎長が街道筋の内偵とともに清水港の取締りに深く関与していたことが判明する。