第三十二話 侠客・清水次郎長生家を訪ねて
侠客「次郎長生家」
住 所:〒424-0945
静岡県静岡市清水区美濃輪町4-16
新清水駅出口から徒歩約17分
入江岡駅出口から徒歩約20分
桜橋(静岡県)駅出口から徒歩約22分
電話番号:054-353-5000
駐 車 場: なし
料 金: 見学無料
時 間: 10~16時
(土・日曜・祝日は~17時)
休 み: 火曜(祝日の場合は翌日)
目 次
いまだに、清水というと、清水次郎長しか浮かばない方が多いようです。私も子供の頃から清水次郎長の名前は知っておりました。しかし、その内容は、誰かに聞いたこととか、次郎長映画で見た断片的なことばかりです。
今回、次郎長生家を訪れる前に、眺めるだけでいいからと思って『各種の次郎長伝』を購入しました。その中で、最も価値のある『田口栄爾先生の清水次郎長と明治維新』を最後に解説したいと思います。
次郎長の生家は次郎長通りにあります。昭和40年代までは次郎長通り商店街と言う名前にふさわしく商店が何軒かあったのですが、残念ながら、現在では『シャッター通り』になっております。『次郎長生家』の近くに『甲田屋』という次郎長の育ったお米屋があったはずですが、今では影も形もありません。今では『次郎長生家』が奇跡的に残っているのです。
次郎長生家の中には、次郎長にまつわる品物が所狭しと並んでおります。残念ながら、ほとんどの人はチラッと見て帰って行く感じのようです・・。次郎長が最後に住んでいた「船宿『末廣』」では、ボランテア・スタッフが一生懸命解説をしてくれました。せっかくの観光資源ですから、解説の録音テープなどがあればもっとよいのかもしれません。
悪ガキ時代の次郎長、義理と人情に生きる任侠時代の次郎長、そして実業家であり社会貢献が大きかった明治以降の次郎長。次郎長には、3つの顔があると言われております。我々、清水の人間は明治以降の社会貢献した次郎長にスポットをあてたがりますが、全国的にはアウトローだった頃の次郎長が有名です。
一階の奥の方は、入り口付近と比べると展示品は少なく、売店が主となっています。しかしながら、昔の生活を考えながら見てみると実に感慨深いものがあります。昔の庶民の暮らしが、この建物にはそのまま残っているのです。おそらく、現代の便利な生活に慣れている私たちにとっては、このような昔の建物や生活は、耐えがたいのではないかと想像いたしました。
清水の地形は、昔とかなり違うようです。清水の地図は、江戸時代に入ってから、さらには明治になってからも変化したようです。特に、今の東海道線の江尻踏切から南側の『港橋』~清水区役所のある『旭町・島崎町・松原町』などがすっぽりと入る『向島』と言われた地域は、激変したようです。
奇跡的に建物が残っている「次郎長生家」も老朽化で維持が難しくなってきており、このままでは存続が危ぶまれます。全国各地の文化財で、取り壊されたものは数え切れません。さらに、お金をかけて復元している文化財も数多くあります。果たして、「次郎長は反社会的勢力だったから」という理由でなくなっても良いものなのでしょうか?
高木三右衛門の次男に生まれた『長五郎』は、甲田屋の山本次郎八の養子となり、『次郎長』と呼ばれた。子供の頃は、信じられないくらいの悪ガキで、親戚に預けられた。戻ってからは、甲田屋の金をごまかして米相場で大儲けした事件もあったが、家業に精を出していた。ところが、旅の僧の予言がきっかけで、旅立つことになります。
いわゆるアウトローになった次郎長は、旅から旅の逃避行。義理と人情の世界というよりも、だましあいと裏切りによる殺戮の世界に身を投じた次郎長は、いつの間にか東海道一の大親分になっていくのでした。
後半、生涯の宿敵、黒駒の勝蔵との争いがありますが、雌雄を決しないまま明治維新を迎えます。
反社会的勢力に所属していた次郎長は、突然、過去の罪が許され『沿道警固役』を仰せつけられます。時代が180度変化するとともに、これを契機に、次郎長も大きく変化していきます。明治以降の社会貢献する次郎長の始まりであります。徳川幕臣の駿府移住は後の次郎長を大きく変えていきます。その中でも山岡鉄舟とのつきあいは、次郎長に大きな影響を与えたようです。
社会貢献する明治の次郎長は、実業家でもありました。数々の事業を手掛け、社会貢献に努めた次郎長は、明治26年に永眠いたします。
波乱万丈の生涯を閉じる時、次郎長の頭の中には「悪ガキだった頃の思い出や喧嘩旅の武勇伝、数々の事業」が思い浮かんだはずであります。そして、3代目おちょうの手を握りながら亡くなったのであります。