10.維新後の田中光顕
維新後の田中光顕 (ウィキペディアより)
維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館(現在は幕末と明治の博物館)、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。その他、1901年(明治34年)に日本漆工會の2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行っている。
晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。
1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町(現静岡市清水区)の別荘にて97歳で没した。
維新後の田中光顕
維新後は、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
政界引退後は、維新烈士の顕彰に尽力。志士たちの遺墨、遺品などを収集、①茨城県大洗町の常陽明治記念館(現在は幕末と明治の博物館)、②旧多摩聖蹟記念館、③高知県佐川の青山文庫に寄贈。
晩年は④静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、⑤同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、⑥神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲。
以下①~⑥の写真を掲載いたします。
①幕末と明治の博物館
茨城県大洗町(おおあらいまち)にある「幕末と明治の博物館」は、大洗の美しい海に近い、緑の松林に囲まれた高台という恵まれた自然環境の中にあります。昭和4年に創立され、80年以上の歴史があります。
野外施設として、「森林浴の森日本100選」の美しい松林の中で、緑の自然を体感できる「大洗キャンプ場」も運営しています。
②旧多摩聖蹟記念館
春は桜、秋は紅葉が見られる、四季豊かな都立桜ヶ丘公園内(多摩市)にあります。建物は明治天皇の行幸を記念して昭和5年に建てられた洋風建築です(市指定文化財・東京都景観上重要な歴史的建造物)。
幕末明治に活躍した人々の書画や、多摩市周辺の豊かな植物の写真等を展示しています。喫茶・ギャラリー(有料)も利用でき、企画展示も行っています。
③佐川の青山(せいざん)文庫
高知県高岡郡佐川町の牧野公園のふもとにあります。名前に「文庫」とついているため、図書館と間違えられることもあるそうですが、坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山らの維新関係資料や、江戸時代に佐川の領主であった、土佐藩筆頭家老深尾家の資料などを展示している博物館です。
④古渓荘(現野間農園)
静岡県の旧富士川町にある近代和風建築の優れた建物で、国の重要文化財になっています。明治時代の宮内大臣・田中光顕の別荘で、現在は講談社(野間財団)が所有しており、一般人が見学できる機会は、特別公開の時のみとなっております。
建物は、和洋を織り交ぜた造りになっており、なおかつ当時の最高級の素材・技術を採用しています。
⑥小田原文学館
『小田原文学館』は、神奈川県小田原市の閑静な住宅街、西海子(さいかち)通りに位置する、田中光顕の別邸です。敷地内には、大正12(1924)年に建てられた純和風の建物と、昭和12(1937)年に建てられたスペイン風の洋館があり、ともに登録有形文化財に指定されています。
洋館が本館となっており、文学者の資料が展示されています。そのほか、白秋童謡館、尾崎邸書斎も併せて見学できます。敷地内は公園として公開されており、庭園のみの入場については無料となっています。