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9.田中光顕著『維新風雲回顧録』
 
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解説 最後の志士が語る 維新風雲回顧禄
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 田中光顕公のことを知るためには、やはり田中光顕公の書いた本を読むのが一番と考え、読んでみました。読んだ解説代わりに、あらすじを書いてみました。
 
(本の裏表紙より)
 遅れてきた尊攘志士田中光顕は、土佐を脱藩後、長州の高杉、伊藤らの庇護のもと、京坂を転々、新選組に狙われながら尊皇倒幕活動に邁進する。中岡慎太郎率いる陸援隊入隊、死後、同隊を後継する。王政復古に際し、錦旗を奉じ高野山に決起、維新の夜明けを迎える。幕末の動乱を生きた者だけが記録できた、維新史の一級史料。
 最後の志士が語る  維新風雲回顧録
                  田中光顕著   
 
 
(歴史の証言) 
 田中光顕は、土佐の人である。年少のころ郷関を脱藩し、いわゆる幕末の風雲をつぶさに体験し、昭和14年97歳まで生きた。幕末のころには、長州の高杉晋作の腰巾着のようにして奔走し、高杉が死ぬと、土佐の中岡慎太郎に従い、維新後は土佐系というよりも長州系の傍役として、かずかずの要職についた。いわば典型的な二流志士であるが、二流の場所であるがゆえに、かえって西郷、木戸、大久保、坂本といったひとびととはべつな視点をもつこともできた。「維新風雲回顧録」はかれが語り残した風雲の実体験記であり、歴史の証言でもある。
 司馬遼太郎
1.叔父那須信吾
 土佐は、藩祖山内一豊が掛川6万石から土佐24万石を徳川家康より賜っていた。したがって、土佐藩山内容堂は、幕府に恩義を感じており、藩の中心は「公武合体論」の吉田東洋(=元吉)であった。これに対して、勤王攘夷論の中心が土佐勤王(きんのう)党の武市半平太であった。武市半平太は長州藩の久坂玄瑞とも同志の盟約をむすんでおり、田中光顕は叔父那須慎吾(写真)と供に、土佐勤王党に所属していた。
 ある日、田中光顕は叔父那須慎吾より吉田東洋暗殺の計画を打ち明けられる。
 

那須 信吾(なす しんご、文政12年(1829)- 文久3年(1863))

 土佐藩の家老を務める浜田光章の三男として生まれる。幼くして父を失ったため、郷士・那須俊平の娘婿となる。田中光顕の叔父にあたる。坂本龍馬に深く傾倒し、文久元年(1861年)に土佐勤王党に加わった。文久2年(1862年)佐幕を唱える吉田東洋を暗殺した上で脱藩し、長州藩に逃亡する。文久3年(1863年)、天誅組の変に参加、軍監を務めるが、鷲家村にて狙撃されて戦死。享年35。

 武勇に優れた怪力の持ち主で、走ることにおいては馬より速いとまで噂されたという。身長は六尺(約180cm)近くあり、「天狗様」と称されたという。

^^吉田東洋
2.帯屋町の流血(文久2年(1862)4月8日)
 吉田東洋(写真)は高知の帯屋町の吉田邸で暗殺(文久2年(1862)4月8日)。叔父那須信吾によって首を掻き切られ、さらし首にされた。叔父那須信吾を含め3名が高知から脱走、京都の久坂玄瑞によって長州屋敷にかくまわれた。
 京都では、薩長の同士が旗揚げしようとしたところ伏見寺田屋事件がおき、失敗。この一挙に加わっていた土佐の吉村寅太郎が、国元に送り返されることになり、田中光顕も脱走を決意する。ところが、脱藩の決意が武市半平太に分かり、公然と上京できるように取り計らってもらうようになる。
 田中光顕は京都で、坂本竜馬、中岡慎太郎、久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作らに会見することになる。
 
吉田東洋(文化13年(1816) - 文久2年(1862))

私塾を開き、後藤象二郎や乾退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎等の若手藩士に教授するが、やがて、彼らが「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えた。法律書『海南政典』を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。

岡田以蔵(勝新太郎)・田中新兵衛(三島由紀夫)・武市半平太(仲代達也)・坂本竜馬(石原裕次郎)
3.暴発組の同志(文久2年(1862)7月20日)
 この頃、京都では天誅が流行する。天誅では、薩摩の田中新兵衛と土佐の岡田以蔵(写真)が有名である。文久2年(1862)7月20日の島田佐兵衛を皮切りに、8月20日本間誠一郎が暗殺された。本間は志士風を吹かせ、薩、長、土の志士の離反を図ったとされている。その後、天誅は勢いを得、姦物とされるものが暗殺されさらし首となった。この結果、天誅の目標がなくなり『足利尊氏』の首をはねる事件にまで発展し、このことにより勤王派と佐幕派のにらみ合いとなった。
 ところで、将軍家茂が上洛しており、この結果、江戸市中が不安な雰囲気に包まれていた。そこで、幕府は将軍を江戸へ引き戻そうとした。ところが、攘夷を理由に朝廷がこれを拒否した。長州の高杉晋作をはじめとする志士の面々は、万が一、陛下の意思に反して東帰をする場合には、将軍家茂を襲撃する計画を立てていた。
 ところが、将軍は東帰の中止を発表し、その代わりに水戸中納言慶篤(よしあつ)を東下せしめたため、桜田門外の変のような騒動は起きなかった。
 
岡田 以蔵(天保9年1838) - 慶応元年1865
 後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられた。 

その後、酒色に溺れて同志から借金を繰り返し、無宿者となるほど身を持ち崩した。拷問に屈して自分の罪状及び天誅に関与した同志の名を白状し、土佐勤王党の崩壊のきっかけとなる。打ち首、獄門となった。享年28。

 
薩摩藩士・田中 新兵衛(天保3年(1832) - 文久3年(1863)
4.8月18日の政変文久3年(1863)8月18日)
 暴発組の同志の噂のため、田中光顕や平井収二郎などが国元にかえされることになった。帰国に合わせて、土佐の藩論を勤王でかためるため、令旨(りょうじ:皇太子等の命令を伝えるために出した文書。を入手し、国元に帰ったが、逆にその内容が藩主山内容堂の耳に入ってしまった。この結果、平井をはじめとする同志が捕えられてしまうことになった。平井は死を覚悟してか、自分自身の刀を田中光顕に記念に贈ることになった。
 さて、京では三条実美卿と並び称せられた姉小路公知卿が暗殺された。その時、下手人の刀を奪うことができ、この刀が薩摩の田中新兵衛(写真)のものと分かり、田中は捕縛されてしまう。田中は、取り調べの直前に自身の短刀で切腹してしまい、ついに下手人が誰か分からずじまいになった。この事件があってから、薩摩と長州の仲が悪くなり、薩摩と会津が歩み寄ることとなった。
 文久3年(1863)8月18日、突然、勤王派の諸公は排斥され、京都御所は佐幕派の手に押さえられてしまった。この8月18日の政変が、有名な七卿落ちにつながることになる。
8月18日の政変と七卿落ち

 文久3年(1863年)は、「天誅」が横行。朝廷内においても三条実美ら尊攘の急進派が朝議を左右するようになる。3月から4月にかけては天皇の攘夷祈願が相次ぎ、ついには510日を攘夷決行の日とすることを将軍徳川家茂に約束させるに至った。

 しかし、孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、急進派の横暴を快く思っていなかった。会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、816日天皇を説得、翌17日に天皇から密命が下り、818日政変が決行された。

 その結果、失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都から長州藩へと落ち延びた。

^^^^^山内容堂公
5.柏章(はくしょう:土佐藩の家紋)旗下の三烈士
文久3年(1863)6月8日)
 令旨問題に関わった平井収二郎は、突然呼び出しを受け、獄中に入れられてしまった。他の獄中の二名と合わせて、三名とも、切腹することになってしまった。文久3年(1863)6月8日)そのうちの一名、間崎哲馬は以前に一度、切腹しかけていた。と言うのは、長州の久坂玄瑞や高杉晋作などの志士たちが幕府に攘夷を迫るため、焼き討ちを計画したのだ。この計画を久坂玄瑞が土佐の武市半平太に打ち明け、武市は山内容堂(写真)に進言し、容堂は長州藩へ報告した。この結果、長州藩は血気にはやる志士たちに、中止するよう説得することになった。計画が中止になったことにより、長州藩の一人が土佐の志士に容堂公の悪口を言った。このことが土佐で問題となり、その時の土佐の志士全員が切腹することになったのだ。この中に間崎哲馬がおりましたが、山内容堂公により切腹が中止となったのだ。
 さて、京都における8月18日の政変は土佐にも影響し、土佐勤王党は捕縛されることに藩論が傾いてしまった。ついに、武市半平太も捕縛の対象になってしまったのだ。
 

山内 容堂 土佐藩15代藩主(在任期間:1827-1872

酒と女と詩を愛し、酔えば勤皇、覚めれば佐幕

^^^武市半平太
6.武市半平太の最期(慶応元年(1865)うるう5月11日)
 武市半平太(写真)は、藩の達しにより捕まえられてしまった。
 その上、①京都所司代に、土佐勤王党の人斬り以蔵、こと岡田以蔵が捕まえられ、高知に護送されることになった。岡田以蔵は拷問にかけられ、秘密を自白してしまった。次に、②藤本駿馬が勝手にパニックに陥り自首してしまった。さらに、③吉田東洋の甥、後藤象二郎が大監察となり武市半平太を裁くことになってしまったのだ。
 勤王の志士は次々に捕まり拷問にあってしまう。そして、武市半平太にも切腹が命ぜられ、武市は単なる一文字割腹ではなく三文字割腹により切腹。(慶応元年(1865)うるう5月11日)
 田中光顕と他4名の者は、ついに脱藩を決意、船頭を脅して長州へ向かうのだった。
 

武市半平太(文政12927日 – 慶応元年閏511日)

  文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成。病に倒れて病床にあった晩年の容堂は、半平太を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる。

^^^高杉晋作
7.風雲児吉村寅太郎(文久2年(1862)12月25日)
 高杉晋作(写真)が心を許した者の一人に、土佐藩の吉村寅太郎がいる。吉村寅太郎は、①骨董品屋のおやじとのやりとりで、兜切りに挑戦し見事に、兜切りを成し遂げたり、②脱藩しているにもかかわらず、土佐藩の大阪住吉陣屋に『勤王派』になるよう説得に行ったり、③結果、もう少しで捕まりそうになったりした。さらに、勤王倒幕運動の失敗で、薩摩藩から土佐藩の住吉陣屋に渡されて高知に護送され、大赦令によりやっと(文久2年(1862)12月25日)放免になったのだ。
 さて、頼母子講の宴席で坊主頭の医者を宮殿下に見立ててからかい、その話が問題となって、吉村寅太郎以下関係者が切腹することになってしまった。
 

高杉 晋作(天保101839慶應31867

 幕末の長州藩の志士。長州藩士高杉小忠太の子。吉田松陰の松下村塾で久坂玄瑞と共に双璧と称され、のち江戸の昌平黌に学ぶ。藩命により奇兵隊を組織し総監となり、四国連合艦隊の下関砲撃事件では講和にあたった。のち九州に亡命するが、挙兵して藩政を握り、藩論を討幕に統一し、第二次長州征伐では全藩を指揮し活躍した。慶応3(1867)歿、29

^^^徳川家茂
8.天忠組の義挙(文久3年(1863)8月14日)
 吉村寅太郎以下、関係者全員切腹と決まったところ、主君の御連枝(=きょうだい)の耳に入り、切腹中止となった。
 ところで、将軍徳川家茂(写真)が上洛して、攘夷の期限を文久3年(1863)5月10日と定めたが、幕府は一向に実行する気配がない。ついに、御親征による攘夷建議となった。時機到来とばかりに、吉村寅太郎は、中山忠光卿を中心に(文久3年(1863)8月14日)天忠(=天誅)組」を立ち上げることになった。翌15日夕刻、2艘の舟で出発、深夜堺へ入る。翌朝、川上村の観心寺(現在の大阪府河内長野市寺元475 )にて、はじめて『菊水の旗』をひるがえし、五条の代官所(奈良県五條市)を襲撃するのだ。
 8月18日、打ち取った代官の首を五条の町外れにさらしましたが、ちょうどこの日が『8月18日の政変』でした。孤立無援の天誅組は、高取藩(たかとりはん:現在の奈良県高市郡高取町)の高取城を攻撃することになった。しかし、高取藩は準備万端整え、天誅組の敗北に終わってしまった。
 吉村寅太郎の軍勢はこの戦いに間に合わず、やむなく高取城の焼き討ちを計画した。しかしながら、城下に忍び寄ったところ、夜回り中の高取藩士と乱闘となってしまい、その上、吉村寅太郎は味方の弾を受けてしまう。
 ついに、なすすべがなくなってしまった。
 
徳川家茂 (弘化3年(1846)-慶応2年(1866))(満20歳没)

13代将軍・家定の従弟にあたり13歳で第14代将軍となる。文久2年(1862年)和宮と結婚。歴代の将軍の中で最も夫婦仲が良かったといわれている。文久3年(1863年)将軍としては229年振りに上洛、義兄・孝明天皇に攘夷を誓った。慶応元年(1865年)、兵庫開港の決定後、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申したが、孝明天皇により辞意取り下げ。慶応2年(1866年)、家茂は第2次長州征伐の途上大坂城で病に倒れ、死亡 

9.吉村寅太郎と那須信吾の最期(文久3年(1863)9月26日)
 中山忠光卿は一同を集め、別れの盃をかわした。破陣となった天誅組は大坂へ向かい(奈良県吉野郡)川上村の伯母谷につく。そこで、彦根藩の斥候が一里先の和田村に来たとの情報を得て、血戦を覚悟して和田村に向かい、敵を求めて鷲家口へ進軍を続けた。中山忠光卿は敵の本陣を襲撃した。
 叔父の那須信吾は、親衛隊に属し敵の大将大舘孫右衛門を倒したが、敵の弾丸に命中し、これが致命傷になってしまったのだ。また、重症を負った吉村寅太郎(写真)は伊勢路に落ち延びようと山中をさまよい空小屋で休んでいた。その時(文久3年(1863)9月26日)、敵に襲われ死亡してしまう。どうも途中に寄った茶屋の老婆が知らせたようなのだ。
 一方、中山忠光卿は敵の囲みを突破、不眠不休で大阪中之島の長州屋敷に入った。
 ところで、田中光顕はこの事件の時、佐川(高知県高岡郡佐川町)にて謹慎中であった。そこへ、元治元年(1864)5月、千屋金策が京阪の動向を報告かたがた、叔父の那須信吾の養父那須俊平の家に宿泊した。話を聞いて、千屋金策の脱藩を手助けした那須俊平も身の危険を感じて6月に脱藩してしまった。
 続いて、田中光顕も8月に脱藩。2人の行く先は、勤王志士の梁山泊(=有志の集合場所)三田尻(現・山口県防府市)の招賢閣なのだった。
 

吉村 寅太郎(天保8年(1837 - 文久(1863))

土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。脱藩後、寺田屋事件(1862)で捕縛されて土佐に送還され投獄される。尊王攘夷派である長州が、力をつけてきた事によって罪が許され、京へ。孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく、明治天皇の母方の叔父にあたる中山忠光を擁立して天誅組を組織。大和国五条代官所を襲撃して代官・鈴木源内以下5名を殺害し、その勢いのまま桜井寺に本陣を置き、代官支配の土地を天皇直轄の領地とする事を発表。しかし、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。(天誅組の変)

^^^岩倉具視
10.新選組の乱入(元治元年(1864)7月19日)
 元治元年7月の蛤御門の戦いには、招賢閣にいた脱藩浪士は、別働隊として忠勇隊を組織して京都に上った。元治元年(1864)7月19日、京都御所西側の蛤御門で戦闘が勃発し、叔父那須信吾の養父那須俊平が戦死。58歳でした。この蛤御門の戦いは薩摩軍援軍により、長州の敗北となり、『第一次長州征伐』が始まることになる。長州の危機、天下、まさに乱れんとす。
 ところで、田中光顕達は、将軍家茂のいる浪華城(なにはじょう:大阪城のこと)の焼打ちを計画したが、その後の義兵を考え遊説をすることになった。この遊説のための留守中に新撰組に襲われ、同志の大利が殺害され、田中光顕達の人相書きをふれまわした。このため、大阪には居られなくなり、田中光顕と那須盛馬は大和十津川(奈良県吉野郡十津川村)の田中邦男を頼ることにした。十津川に潜伏中、京都の形成視察に出かけ、新撰組に衝突し乱闘となってしまった。この結果、那須盛馬は負傷、一命をとりとめましたが「自慢の切り傷」ができてしまう。
 さて、京都では岩倉具視(写真)公が洛北でひっそり暮らしていた。公は、公武合体論者で姦物とされていたが、しだいに公の見識の高さに感服する者が増え、『京の岩倉公、九州の三条公』と言われるようになった。
 

岩倉具視( いわくら ともみ:文政8年(1825)~明治16年(1883)) 

 岩倉具慶の養嗣子。安政元年(1854)孝明天皇の侍従となる。5(1858)日米修好通商条約勅許の奏請に対し、阻止をはかる。公武合体派として和宮降嫁を推進、「四奸」の一人として尊皇攘夷派から非難され、慶応3(1867)まで幽居。以後、討幕へと転回し、同年12月、大久保利通らと王政復古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納言、右大臣等をつとめる。明治4(1871)特命全権大使として使節団を伴い欧米視察。欽定憲法制定の方針を確定し、また皇族、華族の保護に力を注いだ。

蛤御門の変と第一次長州征伐

朝廷はその後も攘夷を主張し続け、1864年横浜港の鎖港方針が決定。しかし、鎖港は実行されず、長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなった。長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込もうとする積極策が論じられた。三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。19日、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。結果、薩摩藩が会津に加担し勝敗が決する。

落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走。中立売御門付近の家屋の攻撃と合わせて、京都市街は21日朝にかけて「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われる。御所に向かって発砲したこと、長州藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことも重なり、長州藩は朝敵となり、第一次長州征伐が始まる。長州藩では保守派が藩の実権を握り、幕府に謝罪。責任者として3人の家老を切腹させたため、実際の戦いは行われなかった。

^^^坂本竜馬
11.四志士の最期(慶応2年(1866)2月)
 大阪城の焼打ち計画に加担し、兵を集めるため山陰地方に游説に向かった三志士に、備前の岡本太郎を加えた四志士は、途中資金が欠乏し住職に相談したところ、造り酒屋の池内文左衛門を紹介された。(慶応2年(1866)2月)ところが、文左衛門は金を貸すどころか、四志士を馬鹿にしたために自尊心を傷つけられた四志士は刀を抜いてしまった。この結果、強盗に間違われてしまった四志士は、百姓に遠巻きにされながら百々村から土居(岡山県英田郡)まで歩こうとした。途中、竹槍をふるった百姓を斬り捨てしまい、さらに土居駅門尻では『御用だ』と躍りかかってきた門番を斬ってしまった。やむをえず、四志士は自害。その後、四志士が勤王の有志だとわかり、塚ができ『四ツ塚様』と呼ばれるようになった。
 一方、坂本竜馬(写真)と中岡慎太郎は薩長連合運動に着手しており、田中光顕達は京都に呼び戻されることになった。この時、田中光顕は自身の刀と、薩摩の浪人梶原鉄之助の持っていた『貞安の名刀』と交換したのだ。
 
 
坂本竜馬(天保6(1836)-慶応3(1867))

攘夷論を超えた国際的視野に立ち日本の未来像を描いた。1865(慶応元)年亀山社中を設立。66年薩長同盟を成立させる。社中は、土佐藩の商社兼海軍教育施設としての海援隊へと昇華した。倒幕後の新政府案が「船中八策」と呼ばれ、後藤から土佐藩を通じて幕府に建白、67年に徳川慶喜をして大政奉還をせしめるに至った。その一月後、日本の未来を見ぬまま凶刃に倒れた。

 

 
^^^中岡慎太郎
12.坂本竜馬と高杉晋作(慶応3年(1867)11月15日)
 薩摩と長州を和解させるため、坂本竜馬は京都に留まり、中岡慎太郎と田中光顕は長州へ下ることになった。この頃、長州では蛤御門の戦いの後、一時俗論派の天下となっていたが、高杉晋作の活躍で俗論派は一掃され、勤王の旗風になびいていた。しかしながら、長州は薩摩との和睦には抵抗があったのだ。
 田中光顕は高杉晋作と会う。高杉晋作は、田中光顕の「貞安の名刀」を欲しがったので、田中光顕は『高杉晋作の弟子になること』を条件に刀を譲った。田中光顕は心底、高杉晋作にほれ込み、高杉晋作の教えに従って『困った』とは生涯口にしなかったそうだ。
 薩長提携のため桂小五郎に京都に来るように、薩摩の黒田清隆が長州に来た。長州はいまだに薩摩との和睦に抵抗があったが、結局、高杉晋作の意見により桂小五郎を京都に送ることになった。
 桂小五郎と西郷隆盛の会談は全く進展しなかったが、坂本竜馬の到着によって局面は打開され、薩摩と長州の同盟がまとまることになった。
 坂本竜馬は慶応3年11月15日の夜、河原町醤油屋の二階で中岡慎太郎(写真)と対談中、賊に襲われ暗殺されてしまった。賊の正体はいまだ不明である。
 

中岡慎太郎(1838-1867 満29歳没)

文久元年(1861年)土佐勤皇党に加盟。文久3年(1863年)、八月十八日の政変後に脱藩、長州藩に亡命。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。

途中から活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させ、薩長同盟を結実させる。その後、薩土盟約が締結、土佐を戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしる。また長州で見聞していた奇兵隊を参考に陸援隊を組織し、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。

京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、2日後に。享年30

 
^^^三条実美
13.高杉晋作と共に
 田中光顕は、太宰府にいる三条実美(写真)以下5卿のため西郷隆盛に談判をした。結果、黒田清綱と太宰府に出かけることになった。この時、幕府の大目付小林甚六郎が太宰府に乗り込んできて、三条実美以下5人の者を江戸表に護送するので引き渡すよう言ってきた。黒田清綱は小林甚六郎と会い、引き渡しを拒否した。
 ところで、幕府は第二次長州征伐を企て、閣老小笠原壱岐守を広島に派遣した。幕府と長州との交渉が決裂し、長州征伐の軍を慶応2年6月にすすめた。
 高杉晋作は英国商人から購入した蒸気船、丙寅丸(へいいんまる)一隻で、幕府軍が占領した大島久賀港(くがこう: 山口県大島郡)の幕艦四隻を襲撃しようと計画。丙寅丸は山陰にそって、夜、久賀港に入りいきなり四隻の幕艦に向かって発砲、痛手を負わせ、悠々と三田尻に戻って来た。その後も丙寅丸は門司で活躍した。結果、第2次長州征伐は、幕府の失敗となり、将軍家茂の病死によって終了したのだ。
 慶応2年12月5日徳川慶喜15代将軍になり、25日には孝明天皇がお亡くなりになった。土佐では、坂本竜馬の勤王党と後藤象二郎の佐幕派が提携、翌慶応3年2月には西郷隆盛が山内容堂と面会、公武合体から勤王へと推移したのであった。

 

三条実美(天保8.(1837)-明治24(1891)

正一位右大臣三条実万と土佐藩主山内豊策の娘紀子の子。安政6(1859)大老井伊直弼の弾圧を受け、次第に尊攘思想を強めていく。818日の政変で長州藩士ら尊攘派が追放されると京都から長州に下った(七卿落ち)。慶応元年(1865)太宰府に移り、同3年同地で王政復古を迎えた。

明治元年(1868)19日岩倉と共に副総裁に就任。元来決断力が弱く,政治的発言も比較的少ない人物で、明治18年内閣制度が成立し新設の内大臣となった後は政治の第一線から退く。

華族最高ランクの公爵として華族社会のまとめ役となった。フレイザー英国公使夫人は当時の実美を「政治にはもう飽きあきした上品な紳士」と評している。

薩長同盟と第二次長州征伐

西郷は坂本竜馬の言葉に心を動かされ、ようやく薩摩藩から長州藩に対し同盟を申し込み、慶応2(1866)120日、「薩長同盟」が締結されました。この同盟を知らない幕府は、長州再征の命令を諸藩に下しました。しかし、幕府軍は各方面で連戦連敗、この時、戦況を見守っていた第14代将軍・徳川家茂が突然病死しました。幕府は将軍の死により、ようやく長州征伐の休戦命令を出すに至ったのです。

幕府軍
地図
坂本竜馬が作った地図
奇兵隊
^^^陸奥宗光
14.白川屋敷の陸援隊
 慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊っていた。この頃、薩長は密かに倒幕の計画をめぐらしていた。
 慶応3年11月15日、ついに坂本竜馬と中岡慎太郎は凶刃のもとに倒されてしまい、海援隊も陸援隊も頭目を失ってしまった。陸援隊については橋本哲猪と田中光顕が後を引き受け、世話をしていた。陸援隊の者は坂本、中岡の敵討ちに真剣で、その内、陸奥宗光(写真)が『紀州藩にかかえられていた三浦が犯人だ。』と言い出した。結果、三浦を襲い乱闘になり、もう少しで新撰組との大騒動になりかけた。この三浦事件の前にも、血気盛んな陸援隊の壮士は騒動を起こし、田中光顕の心配は尽きなかった。
 三浦襲撃事件の翌日 、侍従鷲尾卿を奉じて高野山に義兵を挙げるべく、舟に分乗して大阪へ向かった。紀州兵と遭遇したが、運よく怪しまれず、一向は「ええじゃないか」の踊りに紛れて堺に向かったのだ。
 

陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年(1844 - 明治30年(1897))

坂本竜馬の海援隊に参加。維新後新政府につとめたが,明治10年の土佐立志社事件により5年の刑に服す。のち駐米公使,農商務相をへて,25年第2次伊藤内閣の外相。27年日英条約改正に成功し,同年の日清開戦から三国干渉にいたる難局に対処した。明治30824日死去。54歳。紀伊(きい)和歌山出身。元芸妓の奥さん陸奥亮子(下の写真)が美人すぎて有名。

^^^木戸孝允(桂小五郎)
15.高野山の旗あげ
 一行は、堺(大阪府)から和歌山県の高野山を目指した。高野山のふもとで京都よりの同志がかけつけ、『9日に大政復古の大号令が発布になった』との報告があった。さっそく、高野山や十津川方面に書面を発し、最後に紀州藩に挨拶の書面を送った。
 紀州藩からは、千両箱を土産に重役が軍中にやってきて、鷲尾卿に拝謁した。こうなると錦の御旗が必要となり、京へ使者を出すことにした。使者は無事勅書と錦の御旗を持って高野山へ戻って来た。陸援隊は錦の御旗を持って大阪に凱旋したのだ。
 
 最後に、木戸孝允(桂小五郎)(写真)の俳句
 「世の中は 桜の下の 相撲かな」
 あえて、解説はいたしません。勝手に解釈してみてください。
  

木戸 孝允(たかよし) /  小五郎 天保4年(1833 - 明治10年(1877))

長州人。初め桂小五郎と称し、のち木戸姓。逃げの小五郎のあだ名もあり、二条大橋の下に潜む桂のもとに芸妓幾松(後の木戸松子)が握り飯を運んだのは有名。維新の三傑の一人。吉田松陰に学び、討幕の志士として活躍した。明治維新後、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などに尽力。征韓論・台湾征討に反対した。

 ところで、静岡では徳川慶喜(よしのぶ)公のことを慶喜(けいき)公、田中光顕(みつあき)公のことを光顕(こうけん)、木戸孝允(たかよし)は孝允(こういん)と呼んでおります
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