那須 信吾(なす しんご、文政12年(1829)- 文久3年(1863))
土佐藩の家老を務める浜田光章の三男として生まれる。幼くして父を失ったため、郷士・那須俊平の娘婿となる。田中光顕の叔父にあたる。坂本龍馬に深く傾倒し、文久元年(1861年)に土佐勤王党に加わった。文久2年(1862年)佐幕を唱える吉田東洋を暗殺した上で脱藩し、長州藩に逃亡する。文久3年(1863年)、天誅組の変に参加、軍監を務めるが、鷲家村にて狙撃されて戦死。享年35。
武勇に優れた怪力の持ち主で、走ることにおいては馬より速いとまで噂されたという。身長は六尺(約180cm)近くあり、「天狗様」と称されたという。
私塾を開き、後藤象二郎や乾退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎等の若手藩士に教授するが、やがて、彼らが「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えた。法律書『海南政典』を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。
その後、酒色に溺れて同志から借金を繰り返し、無宿者となるほど身を持ち崩した。拷問に屈して自分の罪状及び天誅に関与した同志の名を白状し、土佐勤王党の崩壊のきっかけとなる。打ち首、獄門となった。享年28。
文久3年(1863年)は、「天誅」が横行。朝廷内においても三条実美ら尊攘の急進派が朝議を左右するようになる。3月から4月にかけては天皇の攘夷祈願が相次ぎ、ついには5月10日を攘夷決行の日とすることを将軍徳川家茂に約束させるに至った。
しかし、孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、急進派の横暴を快く思っていなかった。会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、8月16日天皇を説得、翌17日に天皇から密命が下り、8月18日政変が決行された。
その結果、失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都から長州藩へと落ち延びた。
山内 容堂 土佐藩15代藩主(在任期間:1827-1872)
酒と女と詩を愛し、酔えば勤皇、覚めれば佐幕
武市半平太(文政12年9月27日 – 慶応元年閏5月11日)
文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成。病に倒れて病床にあった晩年の容堂は、半平太を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる。
高杉 晋作(天保10年(1839)- 慶應3年(1867)
幕末の長州藩の志士。長州藩士高杉小忠太の子。吉田松陰の松下村塾で久坂玄瑞と共に双璧と称され、のち江戸の昌平黌に学ぶ。藩命により奇兵隊を組織し総監となり、四国連合艦隊の下関砲撃事件では講和にあたった。のち九州に亡命するが、挙兵して藩政を握り、藩論を討幕に統一し、第二次長州征伐では全藩を指揮し活躍した。慶応3年(1867)歿、29才。
第13代将軍・家定の従弟にあたり13歳で第14代将軍となる。文久2年(1862年)和宮と結婚。歴代の将軍の中で最も夫婦仲が良かったといわれている。文久3年(1863年)将軍としては229年振りに上洛、義兄・孝明天皇に攘夷を誓った。慶応元年(1865年)、兵庫開港の決定後、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申したが、孝明天皇により辞意取り下げ。慶応2年(1866年)、家茂は第2次長州征伐の途上大坂城で病に倒れ、死亡。
吉村 寅太郎(天保8年(1837) - 文久(1863))
土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。脱藩後、寺田屋事件(1862)で捕縛されて土佐に送還され投獄される。尊王攘夷派である長州が、力をつけてきた事によって罪が許され、京へ。孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく、明治天皇の母方の叔父にあたる中山忠光を擁立して天誅組を組織。大和国五条代官所を襲撃して代官・鈴木源内以下5名を殺害し、その勢いのまま桜井寺に本陣を置き、代官支配の土地を天皇直轄の領地とする事を発表。しかし、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。(天誅組の変)
岩倉具視( いわくら ともみ:文政8年(1825)~明治16年(1883))
岩倉具慶の養嗣子。安政元年(1854)孝明天皇の侍従となる。5年(1858)日米修好通商条約勅許の奏請に対し、阻止をはかる。公武合体派として和宮降嫁を推進、「四奸」の一人として尊皇攘夷派から非難され、慶応3年(1867)まで幽居。以後、討幕へと転回し、同年12月、大久保利通らと王政復古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納言、右大臣等をつとめる。明治4年(1871)特命全権大使として使節団を伴い欧米視察。欽定憲法制定の方針を確定し、また皇族、華族の保護に力を注いだ。
蛤御門の変と第一次長州征伐
朝廷はその後も攘夷を主張し続け、1864年横浜港の鎖港方針が決定。しかし、鎖港は実行されず、長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなった。長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込もうとする積極策が論じられた。三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。19日、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。結果、薩摩藩が会津に加担し勝敗が決する。
落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走。中立売御門付近の家屋の攻撃と合わせて、京都市街は21日朝にかけて「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われる。御所に向かって発砲したこと、長州藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことも重なり、長州藩は朝敵となり、第一次長州征伐が始まる。長州藩では保守派が藩の実権を握り、幕府に謝罪。責任者として3人の家老を切腹させたため、実際の戦いは行われなかった。
攘夷論を超えた国際的視野に立ち日本の未来像を描いた。1865(慶応元)年亀山社中を設立。66年薩長同盟を成立させる。社中は、土佐藩の商社兼海軍教育施設としての海援隊へと昇華した。倒幕後の新政府案が「船中八策」と呼ばれ、後藤から土佐藩を通じて幕府に建白、67年に徳川慶喜をして大政奉還をせしめるに至った。その一月後、日本の未来を見ぬまま凶刃に倒れた。
中岡慎太郎(1838-1867 満29歳没)
文久元年(1861年)土佐勤皇党に加盟。文久3年(1863年)、八月十八日の政変後に脱藩、長州藩に亡命。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。
途中から活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させ、薩長同盟を結実させる。その後、薩土盟約が締結、土佐を戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしる。また長州で見聞していた奇兵隊を参考に陸援隊を組織し、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。
京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、2日後に。享年30。
三条実美(天保8.年(1837)-明治24(1891)
正一位右大臣三条実万と土佐藩主山内豊策の娘紀子の子。安政6年(1859)大老井伊直弼の弾圧を受け、次第に尊攘思想を強めていく。8月18日の政変で長州藩士ら尊攘派が追放されると京都から長州に下った(七卿落ち)。慶応元年(1865)太宰府に移り、同3年同地で王政復古を迎えた。
明治元年(1868)1月9日岩倉と共に副総裁に就任。元来決断力が弱く,政治的発言も比較的少ない人物で、明治18年内閣制度が成立し新設の内大臣となった後は政治の第一線から退く。
華族最高ランクの公爵として華族社会のまとめ役となった。フレイザー英国公使夫人は当時の実美を「政治にはもう飽きあきした上品な紳士」と評している。
薩長同盟と第二次長州征伐
西郷は坂本竜馬の言葉に心を動かされ、ようやく薩摩藩から長州藩に対し同盟を申し込み、慶応2年(1866)1月20日、「薩長同盟」が締結されました。この同盟を知らない幕府は、長州再征の命令を諸藩に下しました。しかし、幕府軍は各方面で連戦連敗、この時、戦況を見守っていた第14代将軍・徳川家茂が突然病死しました。幕府は将軍の死により、ようやく長州征伐の休戦命令を出すに至ったのです。
陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年(1844) - 明治30年(1897))
坂本竜馬の海援隊に参加。維新後新政府につとめたが,明治10年の土佐立志社事件により5年の刑に服す。のち駐米公使,農商務相をへて,25年第2次伊藤内閣の外相。27年日英条約改正に成功し,同年の日清開戦から三国干渉にいたる難局に対処した。明治30年8月24日死去。54歳。紀伊(きい)和歌山出身。元芸妓の奥さん陸奥亮子(下の写真)が美人すぎて有名。
木戸 孝允(たかよし) / 桂 小五郎 天保4年(1833) - 明治10年(1877))
長州人。初め桂小五郎と称し、のち木戸姓。逃げの小五郎のあだ名もあり、二条大橋の下に潜む桂のもとに芸妓幾松(後の木戸松子)が握り飯を運んだのは有名。維新の三傑の一人。吉田松陰に学び、討幕の志士として活躍した。明治維新後、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などに尽力。征韓論・台湾征討に反対した。
ところで、静岡では徳川慶喜(よしのぶ)公のことを慶喜(けいき)公、田中光顕(みつあき)公のことを光顕(こうけん)、木戸孝允(たかよし)は孝允(こういん)と呼んでおります。