(清水歴史探訪より)
清水と東京を結んだ旅客機では、今では当たり前のサービスが、日本で初めて登場しました。
「当時としては、金額もすごく高いものですし、あまり普及するようには思えなかったので、当時はそこの『航空輸送社』の社長の相羽(あいば)さんという方がいらしたんですけれども、『目玉商品を何か考えましょう』ということになりました。
(清水歴史探訪より)
日本ではまだそういうサービスをしていなかったものですから、『じゃあそれをちょっと目玉にして、フライトの計画を立てまして、じゃあそれ用に機体を』、ということで今までの2、3人乗りじゃしょうがないので、大きいものも用意して飛び始めるんですね。」
「飛行機自体が5、6人乗りということですから、お客さん何人、そしてそのフライトアテンダント、当時はそういう言い方したのかどうか分かりませんけれども、何人ぐらいだったんでしょう。」
中島フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機
中島飛行機はフォッカー社製スーパーユニバーサル輸送機をライセンス生産しました。昭和6年に民間航空路に就役、日本の民間航空路の黎明期に活躍致しました。 写真は、中島フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機 水上機型 です。特徴あるエンジンと、その下に排気管が二本のびているのが写っています 。
(清水歴史探訪より)
「今の旅客機ですと、ワゴンを押しながらサービスするんですけれども、当時の機内というのはどんな感じだったんでしょう。」
「当時の記録とかを見ますと、とにかくエンジンのすぐ前に座る形になってしまうものですから、飛ぶ前はお話をできるんですけれど、上がってしまうと、もうその爆音で会話が全然出来なかったらしいんですよ。
なので、お客さんと筆談したらしいんですよ。メモを取ってメモを渡しつつ、メモが入ってきてというみたいな(笑い)。どうもそういうスタイルでないと、ほとんど会話ができなかったようなんですね。
実際、中でどういうサービスをしたかというと、案内とかっていうのもそうなんですけれども、バスケットをですね、機内に持ち込みまして、その中で紅茶とかですね、ウイスキーとかサンドイッチとか、あとお茶菓子程度ですね、持ち込んでそのまま手渡しでサービスするという形でした。今とはだいぶ違う形ですね。本当にピクニックに行って渡しているみたいな(笑い)。そういうふうな感じだと思っていただければと思うんですけれども。」
「はい。それでも当時としては画期的なものだったわけですね。」
(清水歴史探訪より)
「そうですね。実はこの『エア・ガール』という名前も、社長の相羽さんていう方が考えたんです。
世界的にもですね、その1年前から始まっているボーイング航空のサービスもですね、看護婦の資格があることというのが基準になっているんですよ。なので、機内で調子の悪くなった方とかっていう風なのも面倒も見てくださいね、ということが採用基準になっている。
『東京航空運送社』の『エア・ガール』というのはですね、機内でお客様にサービスもする、おもてなしですね、そういうものも重視していました。また、容姿が端麗であることという基準はあるんですけれども、世界的に見ても、恐らくそういう風なのを重視して乗せた乗務員というのはかなり早い。もしかすると、世界で初めてなのかもしれないぐらい貴重なんですね。
ですから、当然ですけれども、日本では初めてのサービスが東京と清水を結んでいる飛行機で行われたという話なんです。」
(清水歴史探訪より)
「それで、その3人採用されたという『エア・ガール』なんですけれども、採用試験の人気は高かったんでしょうか。」
「そうですね。当日ですね、141名の方が会場に集まりまして、来た方もいろいろな職業の方がいらっしゃって、芸者さんであるとか、学生さんであるとか、今でいうOLさんであるとか。いろんな多種多様な方が集まったようなんです。」
「皆さん、不安みたいなものはなかったんでしょうか。」
「『ウエイトレス・ガール』とかですね、『エレベーター・ガール』さん、という職業はもう普及している時代だったもんですから、女性がそういう風な職業に憧れるということはやっぱり多かったようです。当時の飛行機なんで、危険も当然伴う話ではあったんですけれども、やはりそういうことよりも、今までにない職業なので、そういうことに対する憧れのほうがたぶん強かったと思うんですよね。」
「当時のことですから、そんな男性でも勇気がいるようなことに女性が・・・ということはなかったんでしょうか。」
「採用する側の意図としては、やはり『女性が乗ってもこんな安全だよ、恐くないよ』、という風な、やはりそういうところを売りにしたい、証明したい、というような航空業界、この会社にしてもそうですけれども、そういうところが強い思いがあって女性がということだったと思うんですよね。」