西園寺公望という人物の描かれ方 -はじめに
清水の興津では、西園寺さんと親しまれた『西園寺公望(きんもち)』は、嘉永2年(1848)に、右大臣徳大寺(とくだいじ)家の次男として生まれ、幼少の時に西園寺家を継ぎました。両家とも摂関家(=摂政・関白に任ぜられる家柄)に次ぐ名家であります。
幕末から明治の初め頃までは、三条実美とか岩倉具視などの公家さんが、政治の世界に登場しますが、明治から昭和にかけては珍しいような気が致します。天皇家に近い近衛さんや西園寺さんのような公家さんが、日本の政治に登場せざるを得なかったのは、天皇陛下の信頼に足る人物がいなかったからであり、それだけ日本の危機の表れだったような気がいたします。
さて、西園寺さんの履歴は本文で紹介するとして、一般的に西園寺さんは、①聡明で国際的視野を持った穏健な自由主義者、②学識豊富で、多趣味な文化人、③貴族気質で、政治欲に欠けるとされておりました。戦争を止められなかった「失敗した政治家」と論じる人もおります。
しかし、このような一般的な西園寺像とは違う別の顔がありました。即ち、予想外に老獪(ろうかい)な西園寺さんの顔と若い「妻」をもつ西園寺さんの顔であります。
西園寺(公望)さんが、右大臣徳大寺家の次男として生まれたのが嘉永2年(1849)であり、ペリーの浦賀来航が嘉永6年(1853)ですから、西園寺さんの幼少期はまさに幕末の動乱期にあたります。
西園寺さんは2歳の時、西園寺師季(もろすえ)の養子になりましたが、両家とも近衛・九条などの五摂家に次ぐ、清華(せいか)家という家柄でした。なお三条実美(さねとみ)も清華家であり、岩倉具視(ともみ)は公家最下層の諸家(しょけ)であります。
西園寺さんの養父西園寺師季は、西園寺さんが養子に入った年に亡くなったため、幼児の時に、西園寺家の当主になったのであります。この結果、11歳の時には御所に出仕(しゅっし)し、3歳年下の睦仁(むつひと)親王(=後の明治天皇)の遊び相手となったのであります。さらに、当時36歳だった岩倉具視とも知り合い、18歳の時には参与、翌慶応4年(1868)には山陰道鎮撫(ちんぶ)総督、東山道鎮撫総督、北国鎮撫使を歴任したのであります。
明治元年(1868)19歳の時、新潟府知事になった西園寺さんは地方官に不満で、軍人志望となり、当時フランス式兵制をとっていた関係でフランス留学を夢見たのであります。
明治3年(1870)、西園寺さん21歳の時にフランス留学の許可が下り、横浜からアメリカ経由でパリに向ったのであります。なお、アメリカではグラント大統領に面会しております。
第二章 あこがれのパリ
西園寺さんは明治4年(1871)の2月から明治13年(1880)の10月までの9年半もの間、パリに留学しております。22歳から31歳の最も大事な青春時代であります。
さて、西園寺さんの留学ですが、当初は華族官費留学生として年間1400ドル(注)でしたが、一般官費留学生よりも400ドル(注)多く、西園寺さんはなんと留学資金の削減を願い出たのであります。さらに、翌年予算削減で留学生が削減されると、官費留学を辞退して自費留学生になってしまうのでした。努力の甲斐(かい)あって、西園寺さんはソロボンヌ大学に入学しましたが、自費留学の学費が年間1200円(注)と高額で明治天皇から毎年300ポンド(注)下賜(かし)されることになったのであります。(注)この当時の1円が今の3万円ぐらいのようです。
ところで、9年半もの海外滞在はあまりにも長すぎ、西園寺(=浦島太郎)さんが政府の要職につくのは容易ではなかったはずです。
パリでは、エミール・アルコラス、クレマンソー、中江兆民、光妙寺三郎、松田正久らと交友が会ったそうです。
第三章 伊藤博文に見出される
明治14年(1881)、西園寺さんはフランスで知り合った松田正久の頼みで『東洋自由新聞』を創刊し、社長に就任しました。新聞の内容は比較的穏健な内容にもかかわらず、社長就任に西園寺さんの周りの反対は強く、最後は明治天皇の『内勅(ないちょく)』により退任することになりました。
明治16年(1883)3月に帰国した西園寺さんは、オーストリア公使となったり、法律取調委員になったり、ドイツ公使となったりと、日本とヨーロッパを行ったり来たりの生活だったようです。ドイツでは食事がまずい、気候が悪いと嘆いていたようです。
西園寺さんは、ウィーンでは陸奥宗光と出会い親友となったようです。
西園寺さんの奥さんの話(最初の奥さん?)
西園寺さんは、いわゆる正妻を持ったことはありません。昔でいえばお妾さん、今でいえば内縁の妻となりましょうか、入籍しなくても長期にわたって一緒に暮らしていた事実上の奥さんが3人ほどおりました。最初の奥さんが小林菊子さんで、お菊さんとよばれておりました。私は、正式な奥さんではないので奥さんの後に「?」を付けて「奥さん?」について説明させていただきます。
最初のお菊さんと知り合ったのは、明治14(1881)年で、西園寺さんが32歳の時であります。お菊さんは、新橋の宝来屋というところで「玉八」という名前で芸妓でした。菊子さんは、落ちぶれた旗本の娘で、生活苦のために芸妓に出されたそうです。
しかしながらお菊さんは、才色兼備の女性で、西園寺さんの奥さん?となった後は、西園寺さんのお母さんの斐子(あやこ)さんと一緒に住んで、漢学と和歌を教えている塾で学んで教養を身につけました。
長女新子が生まれる
明治20(1887)年12月、西園寺さんと菊子さんとの間に女の子が生まれました。女の子の名前は、新子(しんこ)で西園寺さんが名づけました。新子の「新」は、明治維新以来日本を開国しようとした西園寺さんの気持ちを表しているそうです。
第四章 政界入り ---------------日清戦争
明治27年(1894)8月日清線が勃発、この年の10月3日、西園寺さんは第二次伊藤内閣の文部大臣に就任しました。翌28年(1895)4月戦争が終結すると外務大臣陸奥宗光の結核が悪化してしまいます。6月には西園寺さんが外相臨時代理兼文相になり、明治29年(1896)5月からは外相兼文相となりました。
明治29年(1896)8月に伊藤内閣が倒れ、西園寺さんは外相兼文相を免じられ、身軽になった西園寺さんは11月29日フランスへと旅立ったのであります。ところが明治30年(1897)5月、旅先で突然盲腸炎にかかり、強引に帰国したのであります。さらに、その年の8月親友の陸奥宗光が死亡。47歳の西園寺さんは、異国で大病と親友の死を経験し、しかも毎年のように病気の再発に悩むのでありました。
一方、西園寺さんの伊藤博文の信任は厚く、明治33年(1900)には伊藤博文の立憲政友会創設に参加し、次第に伊藤博文の後継者としての地位を確立したのであります。
この家は、東海道線(現在、京浜東北)の大森駅の近くです。西園寺さんはドイツ駐在公使の任を終えて帰国し、初めて自分の家を建てました。西園寺さんはこの家に1894年から1900年までの間住んでいました。
1900年頃、西園寺さんの家に出入りしていた国木田独歩によると、西園寺さんの娘新子はすでに12歳になっていました。東京市神田にあった仏和女学校で主にフランス語を学び、寄宿舎生活をしていました。すでに前年には、伊藤博文に熱心に勧められ、井上馨の仲立ちもあって、毛利八郎を新子と結婚させるため、養嗣子(ようしし)に迎えていました。八郎は毛利元徳(前長州藩主)の八男で学習院に通っていました。西園寺さんはフランスで盲腸炎になり、九死に一生を得たことから、養子をとる気になったそうです。
フランスで大病をして以来、健康には少し自信をなくしていた西園寺さん。しかし、伊藤にしたがって自らの理想に向かうとともに、伊藤の後継者としての期待がありました。家庭生活での希望も多く、西園寺さんは、人生で最も幸福で自信に満ちた日々を送っていたのではないでしょうか。
第五章 二度の組閣と元老の仲間入り----------日露戦争・第一次世界大戦
私どもは、日清戦争→三国干渉→遼東半島返還→臥薪嘗胆(がしんしょうたん)→日露戦争と日清戦争から日露戦争までは、一直線の避けられない戦争だったと教育されていました。しかしながら、戦争に積極的だったのは、山県有朋・桂太郎首相・小村寿太郎外相で、消極的だったのが伊藤博文・西園寺さんや立憲政友会だったのです。
さらに、ロシア側は、日本には大国ロシアと戦う意思はないと見くびっており、日露交渉は難航、ようやくロシアから妥協案が届いた時には戦争が始まっていたのであります。もし、伊藤さんや西園寺さんの考えどおり戦争を避けていれば、日本の歴史・世界の歴史は大きく変わっていたと思います。
さて、戦争の準備をしていた日本と準備をしていなかったロシアの戦争は、日本に予想以上の勝利をもたらし、辛うじて日本が勝つことができましたが、国民の思っているほどの勝利ではありませんでした。
明治39年(1906)1月7日、密約通り西園寺内閣が発足いたします。西園寺さんが57歳の時であります。この内閣、舅(伊藤博文)や小姑(山県有朋・桂太郎)の発言権が大きくて、西園寺さんは実力発揮ができませんでした。
しかし、それでも、日米協定、日仏協約、日露協約、第三次日韓協約、第二回日英同盟協約の締結や軍拡の抑制に貢献したのであります。西園寺さんは、病気の悪化もあり、明治41年(1908)7月4日辞任することになりました。西園寺さんの次は、第二次桂内閣であります。この桂太郎と西園寺さんは仲が良く、桂は妾(めかけ)のお鯉(こい)を、西園寺さんは二番目の「妻?妾?」中西房子を同伴して時々食事したのであります。
明治42年(1909)10月26日、日韓併合に反対していた伊藤博文が暗殺されました。
写真は、中西房子さん(右)とその二人の娘さん
一方、西園寺さんの政友会は原敬の影響力が拡大し、第二次桂内閣の後を政友会が引き継ぐ交渉をまとめていました。こうして、明治44年(1911)8月30日、第二次西園寺内閣が発足いたします。
明治45年(1912)7月30日 明治天皇崩御
大正元年(1912)12月、陸軍2個師団増設がこじれ、西園寺内閣が倒れ第三次桂内閣が誕生しました。さらに、大正三年(1914)政友会総裁の席を、西園寺さんは原敬に譲ることになったのであります。
大正3年(1914)7月末第一次世界大戦勃発
政界の表舞台を引退した西園寺さんは、政界の裏舞台では調整役として老獪(ろうかい)に動きまわり、大正5年(1916)山県有朋の推薦により正式に元老に就任しました。
最初の奥さん?お菊さんについて
最初の奥さん?であるお菊さんは、西園寺さんが駿河台邸や首相官邸を本宅とするようになっても、大磯の別荘に住み続けておりました。いつのまにか、お菊さんは異常なほどきれい好きになっておりました。朝夕1日2回の掃除を1年365日欠かしたことがなく、廊下や板敷きはまず濡れ雑巾で雑巾がけをし、さらに乾いた雑巾でからぶきをし、そのうえ幾日かに一度は豆腐のおからで拭くほどでしたいた。お孫さんたちが、海水浴や砂遊びをして帰ってきて、玄関で足の砂を落とさずに家に上がったりすると、お菊さんはすごく不機嫌になったそうです。これは、西園寺さんが2番目の奥さん?である中西房子さんと暮らすようになったのが原因ではないかと思われます。
西園寺さんはめったに大磯に来ませんが、来た時にはまめまめしく西園寺さんに仕え、それなりに幸せだったそうです。
ところが、大正6(1917)年に大磯の別荘は売却されてしまったのです。そこで、西園寺八郎・新子夫妻の移り住んだ麻布飯倉片町(現、港区麻布台)の貸家のすぐ前の小さな家に移り住むようになったのです。西園寺さんはお菊さんに毎月300円(現在の100万円ほど)の手当を与えていましたが、浪費家のお菊さんにとっては、けっして楽な生活ではなかったようです。本来ならば、西園寺さんはお菊さんを、大磯の別荘を引き払った時に興津坐漁荘へ連れて行くべきだったのですが、2番目の奥さん?中西房子さんに気兼ねしたのか、お菊さんと一緒にいたくなかったのかわかりませんが、連れて行きませんでした。
第六章 パリ講和会議
大正7年(1918)11月11日、ドイツが休戦協定に調印、パリで講和会議が開かれることになり、西園寺さんは全権大使に選任されました。日本にとっての重要議題は、①国際連盟の設立、②日本の占領したドイツの領地や租借地、③人権差別撤廃問題でありましたが、③以外はほとんど日本の主張が認められ、西園寺さんは群衆の万歳を受けて、大正8年(1919)8月に、帰国したのであります。
大正10年(1921)皇太子殿下がヨーロッパから帰国、
大正11年(1922)皇太子殿下は、摂政となりました。
三番目の奥さん?「お花さん」について
三人目の奥さん?が奥村花子さん(花子さん)です。大正8年(1919)の西園寺さんが69歳の時の奥さん?です。ただし、花子さんは女中頭と言う肩書だったそうです。
三番目の奥さん?「お花さん」の記事です。
お気に入りの女中「お花」、奥村花子はこの時23歳でした。
「丹波丸」が上海に停泊すると、地元の新聞は「お花」のことを「日本における最もしとやかにして謙遜なる美人なり」と報じました。香港では、英字新聞『チャイナ・ガゼット』が「お花」は西園寺の「愛妾(あいしょう)」であると書いたのであります。
写真の一番右が、「お花さん」です。
駿河台邸の新宅(西園寺さんの駿河台邸の本宅の記事です)
駿河台邸は「2000坪に7万円【現在の3億3000万円ぐらい】を投じた新邸は結構と云うのではないが、如何にも【西園寺】侯の面目が浮いて居る」と報じられました。応接間1つ、広間2つ、食堂一間が洋室で、その2階の8畳・10畳の和室は西園寺の書斎でありました。居間の次には夫人と娘の部屋が続いている。また、500坪の庭は、杉と檜のもりになっていて、木の下路に苔を敷いただけで、築山や池など世間並みのものは一切なく、「一風変って」いました。
第七章 元老の自覚 -元老山県有朋の死
大正10年(1921)11月4日、原敬首相が暗殺されます。西園寺さんは、原敬の暗殺を冷静に受け止め、後継に高橋是清を推挙しました。これに対して、山県有朋は、原敬の暗殺に衝撃を受け発熱してしまいました。山県は自分自身の死期を感じて秘書の山本剛吉を西園寺さんに紹介し、大正11年(1922)2月83歳で永眠したのです。
長女新子との永別
ところで、西園寺さんは大正5年(1916)から水口屋(みなぐちや)に避寒してから興津が気に入り大正8年(1919)に別荘『坐漁荘』を建設しました。新築別荘『坐漁荘』に居を移した翌大正9年(1920)正月、長女新子(32歳)をスペイン風邪で亡くしてしまいました。このことがきっかけで、養嗣子(ようしし)の西園寺八郎とはだんだん疎遠になっていくのでした。
西園寺さんは興津での政治生活に自信を深め、牧野伸顕(のぶあき)を内大臣に推挙したのでした。ところで、なお、本来、内大臣は具体的な権限はありませんが、元老クラスの名誉ある職なのです。牧野伸顕は裕仁摂政と日常接し、摂政の家庭教師のような存在になっていくのでした。
牧野伸顕は大久保利通の二男で、吉田茂は女婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたります。大正14年(1925)内大臣に転じた後、後継首相の選定にもあずかることになりました。牧野に対する天皇の信頼は厚く、退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話があります。
第八章 昭和新帝への期待と不安 -老練な政治指導の落とし穴
大正15年(1926)12月25日、大正天皇が崩御。同日裕仁摂政が天皇陛下に即位されました。翌年の昭和2年(1927)は金融恐慌の年であります。この金融恐慌を食い止めるべき『緊急勅令案』が、若槻内閣が気に入らないからと言う理由で、枢密院で否決されてしまいます。結果、若槻内閣は総辞職となり田中義一内閣が誕生いたします。
田中内閣は、組閣後ただちに官僚の大幅人事異動を行うのですが、これを昭和天皇が問題にします。実は、官僚の人事異動まで天皇が注意することは慣例がなかったのですが、牧野伸顕内大臣は田中首相に天皇に詫びるよう仕向けたのです。
お花さんと『お花騒動』について
三人目の奥さん?お花さんについて、もう少し詳しく説明いたします。お花さんは奥村花子といい、明治28年(1895)に滋賀県大津市の貧しい農家に生まれ、口入屋(注)の紹介で西園寺さんの女中になりました。お花さんは、二番目の奥さん?中西房子さんのお伴として大正5年(1916)に水口屋(みなぐちや)の別荘に西園寺さんと供に行っております。この時、お花さんは21歳でした。
いつから、三番目の奥さん?になったかわかりませんが、大正8年(1919)に69歳の西園寺さんがパリ講和条約の全権としてフランスに行った時には『召使い』として同伴しております。この時の新聞の取り扱いでは24歳のお花さんは単なる女中さんではありませんでした。
さて、大正13年(1924)、西園寺さんが75歳、お花さんが29歳の時に『加代子』という女の子が誕生します。西園寺さんそっくりという噂もありますが、西園寺さんの年齢を考えると違うと思われます。加代子さんはすぐにお花さんの実家の方に引き取られました。西園寺さんはよほどお花さんに惚れていたとみえ、よその子を産んだお花さんを追い出しませんでした。西園寺さんは、少なくとも昭和2年(1927)の87歳の時まではすこぶる元気でした。これは、少なくともお花さんの存在なしでは考えられません。
ところが、昭和3年(1928)の1月末には西園寺さんは重い病気にかかり、一時は面会もできないくらいになってしまいました。その原因が、『お花騒動』なのです。実は、西園寺さんが重病になる前に、お花さんは出入りの銀行員の子供を身ごもってしまったのです。単なる女中さんなら簡単に解雇されるのですが、なにせ三番目の奥さん?です。ようやく、執事の熊谷八十三がお花さんを追放することを決意して、私設秘書で貴族院議員の中川、養嗣子の八郎、二番目の妻との間の娘園子も加わって西園寺さんを説得して、3月2日に追い出しました。
ところで、花子さんは出ていくとき、荷物を15~16個持っていきました。さらに、追い出されてから1か月後、花子さんはお母さんと供に坐漁荘を乗り込んできたそうです。やはり、三番目の奥さん?としての慰謝料が欲しかったのだと思います。
(注)口入屋:くちいれや:職業紹介業:清水では一般に紹介業者を『くにゅう』と呼んでおりました。狭い意味で、『くにゅう』と言うと清水では『不動産業者』のことをいうようです。
女中頭のお綾(あや)さん
西園寺さんのお気に入りの女中は、お花さんの次はお綾(あや)さんでした。お綾(あや)さんは京都市の住職の娘で漆葉綾子(うるしばあやこ)といい、一度結婚して子供を産み離縁されたそうです。容姿は写真で見て分かる通り、中肉中背の十人並みで、お花さんが追い出された昭和3年(1928)には26歳だったそうです。
お花さんの後に女中頭になったのは悦子さんと言う女性でしたが、お綾(あや)さんにいじめられて辞職、その後はお綾(あや)さんが女中頭になりました。なお、西園寺さんのお気に入りの女中さんでしたが奥さん?ではなかったようです。
さて、お綾さんは悦子さんを追い出した後、若い女中、警備の巡査部長、別の女中、男の使用人、看護婦と次々にいじめの対象にしたそうです。この原因は西園寺さんがストレスにより癇癪(かんしゃく)を起こし、それがお綾(あや)さんへの重圧になり、その結果他人への攻撃になったのではないかと思われます。ところが昭和6年(1931)に執事の熊谷を最後に、お綾さんのいじめはなくなったようです。
お綾(あや)さんの写真は興津坐漁荘にも飾ってありました。
昭和3年(1928)6月4日、いわゆる満州某重大事件が発生しました。関東軍の河本(こうもと)大佐が、満州の軍閥張作霖を満州鉄道で暗殺、事件を国民党のしわざに見せかけようとしたのであります。当初、田中内閣は天皇に『事件の真相を探り、軍法会議で処罰する』と約束しました。しかし、閣内と陸軍が、『事件の真相を暴露すれば、日本に不利益になる。』との理由で反対し、田中は、軍法会議での処分方針を変更せざるを得ない旨を天皇に説明しました。結果、天皇は田中を問責、田中内閣は昭和4年(1929)7月辞表を提出、浜口雄幸(おさち)内閣が誕生しました。
この波紋は大きく、いつの間にか「牧野内大臣ら宮中側近の陰謀に若い天皇が引きずられ、田中問責事件が起きた」と国粋主義者や軍人に広がっていったのであります。
五・一五事件-----------------世論「犯人は愛国者」減刑嘆願書の山
第十章 最後の御奉公 -国際連盟脱退と二・二六事件
昭和7年(1932)9月、齋藤内閣が満州国を承認したとの報を聞き、82歳の西園寺さんはこれが最後と思いながら京都に来たのであります。京都滞在中の10月満州事変のリットン調査報告書が送付されてきた。内容は、満州国を承認しないものの、満州事変以前に比べて大幅に日本の権利を認めるものだった。しかし、日本の新聞はこの報告書に批判的であった。
当時の世論---------------「満州は日本の生命線」
この年の後半、関東軍が熱河省(ねっかしょう)に侵入、しかも昭和天皇は勘違いして認可してしまった。これに対して、国際連盟は満州事変以前の状態に戻すよう勧告してきたのであります。この勧告案に対して日本は国際連盟脱退を決意したのである。
国際連盟脱退-----------------世論「よくぞ世界にもの申した。」
昭和10年(1935)2月、国粋主義の貴族院議員が、通説とされていた美濃部達吉の天皇機関説を批判、いやけがさした牧野内大臣が健康上の理由もあって退任、西園寺さんも休まる暇もない時に、二・二六事件が発生したのであります。
東京渋谷の二・二六事件の慰霊碑は、今、女子高生に人気??
昭和11年(1936)2月26日青年将校らによって、岡田首相をはじめとする昭和天皇の重臣をことごとく襲撃されてしまったのであります。しかも、陸軍は当初クーデターを容認する方向で動いたのであります。しかし、昭和天皇が決起部隊を賊と断定し参謀本部を中心にクーデター部隊を鎮圧したのであります。
西園寺さんは清水警察署署員に守られながら知事官舎に一時避難したのですが、『どうせ死ぬなら坐漁荘の居間がよい』といって帰宅したのであります。
二・二六事件の日は珍しく興津に雪が降ったのです。
襲撃で危うく難を逃れた岡田首相が辞表を提出したので、次の首相に西園寺さんは近衛文麿を考えました。(写真はヒットラーに扮する近衛文麿)ところが近衛は健康上の理由で固辞、やむなく広田弘毅(こうき)外相による広田内閣が発足したのであります。しかし、一年もしないうちに陸相と意見が合わず総辞職、次は宇垣一成大将に決まり組閣の命が下ったのであります。ところが、せっかく組閣の命が下ったものの陸軍大臣の候補者がいないため組閣を辞退、ついに陸軍の求める林銑十郎内閣が昭和12年(1937)2月2日成立するのでありました。
当時の世論------------ヒットラ―のドイツは強い。
第十一章 すべては「小夢」 -日中戦争の拡大
昭和12年(1937)3月林内閣は衆議院を解散したが大敗したので辞表を提出、西園寺さんは再び近衛文麿に期待を持ち、周囲から説得、ようやく昭和12年(1937)6月近衛内閣が誕生しました。
ところが、昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍が衝突し、戦火は中国大陸に全土に拡大していったのです。88歳に近づいた西園寺さんの体力は衰え、死を意識するようになっておりました。日中戦争は拡大を続け、国民政府は南京を脱出、奥地に移って抗戦を続けたのであります。ついに、近衛首相は、「国民政府を相手にせず」と和平交渉を打ち切り、戦争は目的を見失い泥沼化していくのでした。
新聞各社-----------戦争を賛美「暴支膺懲」
(注)戦争の目的は暴支膺懲(ぼうしようちょう:.暴虐な中国を懲こらしめる。)
この間、西園寺さんはかってのような政治への緊張感を欠き、第2次近衛内閣成立の時には奉答を辞退したほどでした。そして、昭和15年(1940)10月23日最後の誕生日を迎え、11月24日坐漁荘にて永眠されたのです。
当時の世論-----------「日米開戦やむなし」