(清水歴史探訪より)
清見潟の波音は遠くなり、元の建物も明治村へと移されましたが、再建された坐漁荘は西園寺公望公の威厳を今に伝えています。
お話は、興津坐漁荘観光ボランティアガイドの伊吹重雄さんでした。
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
お相手は、石井秀幸でした。
この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いのいそべ会計がお送りしました。いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。
『元老西園寺公望:古希からの挑戦』(P.194~196)より引用
そこで政友会総裁をやめた後の数年間は京都市郊外の田中村の清風荘に滞在し、1916年からは静岡県興津の旅館、水口屋の勝間別荘に避寒した。そうするうちに西園寺は興津の気候や太平洋を望む景色に愛着を深めた。そこで、別荘を建築することになった。パリ講和会議の全権としての仕事を終えて帰国してまもなく、1919年9月に別荘が竣工した。この費用はすべて住友家が持ち、同年12月に住友吉左衛門友純(ともいと)(西園寺の実弟で住友家に養嗣子として入る)から西園寺に提供された(増田壮平『坐漁荘秘録』38頁)。別荘はのちに坐漁荘と名づけられた。
その名は、古代中国の呂商(太公望)が、茅(ぼう)(かや)に坐して漁したという故事による。坐茅漁荘とすべきところを、坐漁荘と略した。周王朝を建てる文王の師となった釣好きの「太公望(たいこうぼう)」と、西園寺の名の「公望」の字をかけている。
こうして西園寺は、興津に1年の4分の3ほど住むようになった。東京市の駿河台邸に戻るのは、東京に政治関係等で臨時の用事がある場合で、京都の清風荘に滞在するのは、春・秋の気候の良い季節のみに限られた。また、1922年には御殿場の別荘が竣工し(ただし関東大震災で倒壊し、1924年に再建)、7月下旬から9月中旬頃まで2ヵ月ほど避暑をするようになった。
興津には西園寺の考えを聞いたり自分の政見を理解してもらったりするために、様々な政治家や軍人が訪ねてきた。興津の別荘の警備詰所で保管していた来訪者名簿によると、1923年6月から12月の間を例にとると、内田康哉(こうさい)外相(2回)・田中義一陸軍大将(前陸相)(1回)・岡野敬次郎法相(1回)・牧野伸顕(のぶあき)宮相(1回)・平田東助内大臣(1回)・徳川家達貴族院議長(1回)や、衆議院第一党の政友会最高幹部の床次(とこなみ)竹二郎(前内相)(1回)・同じく横田千之助前法制局長官(3回)らが訪れた(『坐漁荘秘録』162~165頁)。
興津にいた西園寺にとって、これらの人々から得る情報を補完するため、松本剛吉からの情報が重要であった。
坐漁荘は300坪の敷地の中に、西園寺の住む京風数寄屋造の2階家1棟のほか、執事室、倉庫、警備詰所などが建っていた。1929年9月の大改造で応接間(12畳)が、その約3年後の五・一五事件のあと鉄筋コンクリート造の書庫が設けられた。この書庫は、万一の場合の避難用ともいわれている。
坐漁荘の門は、瀟洒な編み竹の扉を真東に向けたもので、初めは小料理屋と間違えられたという。また、表玄関の2枚格子を開けると2坪余りの土間があり、それに面して4畳半のこぢんまりとした玄関間があった。そこから幅90センチメートルほどの廊下を隔てて8畳間が南向きに2つ並んでおり、そこを西園寺が居室兼食堂と寝室に使った。2階には10畳と8畳の客間があった。
このように坐漁荘はさほど大きくなく一見すると質素に見えたが、上質の木材を使用し外壁全部を檜の皮で葺(ふ)いた、相当に凝った建築であった(『坐漁荘秘録』42頁、「西園寺公の第宅」)。元老の邸宅としては小さいながら、見識のある人が見ると価値がわかるというのは、まさに西園寺の趣味を反映していた。