(清水歴史探訪より)
「再び、一階の廊下に下りてきました。海側の方が西園寺公望さんのお使いになっていた部分で、反対側が使用人の方のお住まいだったということですね。」
「その通りですね。こちらから、女中さんのお部屋になります。」
「玄関の裏手になるんでしょうか。」
「そうですね。」
(清水歴史探訪より)
「電話が先ほどから何台かあるんですが。」
「はい。」
「当時もこんなに電話があったんですか。」
「立場上ですね、いわゆる裏電話というか、しかるべきところにホットラインができていましてですね、何か自分で必要な情報を入れたりとか、あるいは仕入れたりするときにこの裏電話が活躍したのではないかと思います。これ、一体なんだと思います。」
「これ電話交換機のようですね、昔の。手動式の。」
「おっしゃる通りですね。この電話交換機がですね、この位置にあったんですね。明治村に移築するときに、併せて一緒に明治村に移動することになりましたので、こういう形で交換機がここにあったよ、ということを示すだけです。」
「当時はまだ一般には、電話というのは普及していない時代ですよね。」
「そうですね、こういう西園寺公望という、政治活動の要人として、これは不可欠な通信手段ではなかったかと想像します。」
「そして、こちらが裏口になるんでしょうか。」
「はい、裏口、裏玄関ですね。それから、こちらは台所になります。実際にここでは料理を作ったりはしませんでした。よそで料理したものをこちらに運んで、例えば、これはお櫃(ひつ)ですね。ご飯をいれたお櫃を持ってきたりとか、汁物なんかを鍋で持ってきて練炭とか炭なんかを入れてあったかくする、と。ここで盛り付けをして出すと。そういう形をとりました。一般の家庭を想像していただくと、台所なんかには包丁だとか、そういう刃物なんかを置くことがあると思うんですね。そういうものをここに置かない、凶器になりうる刃物類はここに置かないというのが大きな理由かと思います。」
「さて、この坐漁荘の現在の建物なんですが、復元されたものだと伺いましたが。」
「この坐漁荘は戦災から免れることができましたけど、木造住宅ゆえにだんだん痛みがひどくなってきます。
昭和40年を境にして、高度経済成長という波に押されてですね、『この坐漁荘も取り壊してしまうか』という話があったときに、『こういう歴史ある建物をそんな簡単に壊すのは忍びない』、犬山(いぬやま・愛知県)の明治村に移築するという話が出てまいりました。それが昭和45、6年ごろの話です。移築するときに際しては、細かく記録をとりました。この場所は記念碑を立て、公園として残されたわけです。
『何とか建物を、復元してもらえないだろうか』という風にして希望を出すんですが、なかなか復元には至りませんでした。ところが、静岡(市)と清水市の合併、記念事業的な要素も含めて、我々の希望を聞いてもらうことができて、復元することができたんですね。
復元するにあたって、できるだけ忠実に復元したいという私たちの希望もありました。そして、材料の調達から、90~95%ぐらい、以前と同じような形で復元されたと感じています。明治村では感じ取れない、やはりこの興津のこの地でなければ感じ取れない、そういうところに復元住宅の大きな意義があるんじゃないかと、そういう風に感じています。」