本名は倉橋 格(くらはし いたる)で、酒上不埒(さけのうえのふらち)という名で狂歌も詠んだ。駿河小島藩・滝脇松平家の年寄本役として藩中枢に関与していた。石高は最終的に120石。江戸藩邸のあった小石川春日町から恋川春町というペンネームを付けた。黄表紙(元祖まんが)といわれるジャンルを開拓し、一躍売れっ子作家となる。
しかし、黄表紙『鸚鵡返文武二道』が松平定信の文武奨励策を風刺した内容であることから、寛政元年(1789)、定信に呼び出しを受ける。春町は病気として出頭せず、同年4月24日には隠居し、まもなく同年7月7日に死去した。自殺と推測する著書もある。享年46。墓はこの龍津寺(りょうしんじ)と、東京都新宿区新宿二丁目の成覚寺にある。
黄表紙(きびょうし)は、ウィキペディアによると、『江戸時代中期の1775年(安永4年)以降に流行した草双紙(一種の絵本)のジャンルの一つ。恋川春町の『金々先生栄花夢』(1775年刊行)が、それまでの幼稚な草双紙とは一線を画する、大人向けの読み物として評判になった。『金々先生栄花夢』からも知られるように、黄表紙の筋書き自体はたわいもないような話であるが、言葉や絵の端々に仕組まれた遊びの要素を読み解くことに楽しみがあった。ふきだしの様なものが描かれるなど現代の漫画に通じる表現技法を持っていた。』となったいる。私は、分かりやすく、黄表紙(きびょうし)とは『元祖まんが』としている。
酒上不埒(さけのうえのふらち)の狂歌が、見つかりましたので、ご披露します。
三月は 尽くれど質の ふるあはせ うけぬかぎりは 春にぞありける
酒上不埒(さけのうえのふらち)
この狂歌は『三月は今日で終わってしまうけれど、長い間質に入れたままの古袷(ふるあわせ)を請け出さない限り、自分にとってはいつまでも春であるといっている。』この狂歌の本歌は、次の和歌でありました。
春きぬと 人はいえども うぐいすの 鳴かぬかぎりは あらじとぞおもふ
壬生忠岑(「古今集」春、)
というもので、この本歌のほうには全体的に風雅な雰囲気があります。
それに対して、酒上不埒の方は自分の古袷(ふるあわせ)を質から出せないほどの貧窮をわざと歌に取り入れることによって、庶民的な雰囲気を出しております? 正直言って、あまりうまくはないね!