須弥山(しゅみせん)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
仏教宇宙論における世界中心的な巨山。サンスクリット語でメールMeruまたはスメールSumeruといい、後者が須弥ないし、蘇迷盧(そめいろ)と音訳される。意訳は妙高(みょうこう)。水をたたえた金輪(こんりん)の中心に立ち、水面上の高さは8万由旬(ゆじゅん)(1由旬は一説に約7キロメートル)で、周囲には同心状に七つの山脈が取り巻く。最外周の山脈のさらに外には、須弥山の東西南北の方角にあたって一つずつ大陸があり、そのうち南にあるのが、われわれの住む大陸「贍部洲(せんぶしゅう)」である。須弥山を中心に太陽、月、星が水平に回っている。山の東西南北の面はそれぞれ異なる物質からなるが、瑠璃(るり)でできた南面は南の空を青く映えさせている。山腹には四大王天(しだいおうてん)らが住み、頂上には帝釈天(たいしゃくてん)を首領とする三十三天(利天(とうりてん))らが住む。頂上には善見城(ぜんけんじょう)や殊勝殿(しゅしょうでん)があり、一種の楽園となっている。アレクサンドロス大王の東征伝に出る山名メーロスやトルクメニスタンの都市名メルブ(現マリー)などと関連があるかもしれない。[定方 晟]
「今度は、さらにそれを拡大してみると、マクロな視点で見ていくと、この須弥山(しゅみせん)思想という世界観になっていきます。
宇宙観のような形になっていきます。私たちがいる宇宙がどういう風にできていくのか。
須弥山(しゅみせん)という高い山、神様・仏様が住む山がございます。
そこはですね、逆三角形が乗っかったようなちょうど真ん中がくびれたような形をしています。」
「四角錐を上下で合わせたような感じですね。」
「そうですね。その周りを太陽、月が回っていく。
四方を守っているのが四天王。そのてっぺんにいるのが、有頂天。『有頂天で喜ぶ』というのは、ここから来ているということになります。」
「はい。」
(清水歴史探訪より)
「それで、階層となった山々がですね、大地が、一面に下に向かって拡がっていきまして、青い海の真ん中、そこにまた逆三角形がありまして、インドの形なんですけれども、そこに私たちの先ほど見ていただいた閻浮提(えんぶだい)という大地が広がっている。
これが私たちのいる地球と考えたらいいかと思います。」
「それから、ここが金輪(こんりん)といって、世界の果てになっていきます。海があるとすれば、その海を支えているお盆のような形のところ、『金輪際、あんたとは口利かないわ』なんていう言葉は、これはここからきているんですね。『世界の果て』ということですね。それから、水輪(すいりん)、風輪(ふうりん)とあって、宙に浮いているような形をしているのですね。それからもう1つおもしろいのは、この上にですね、何があるかというと、いわゆる天上界、極楽の世界ですね、これもまた階層関係となって、上になります。」
「仏教的なものと、それから現代宇宙科学的なものがミックスされているような感じですね。」
「はい、その通りです。その江戸時代の科学が入ってきたときに論争が起こってくるんですね。
西洋の知識と東洋の今まで仏教的世界観を守ってきたもの。どちらが正しいのか、擦り合わせようともしていきましたし、『この世界観でも色んな現象は説明できるじゃないか、と。地震、雷、寒暖の差、日の長さ・短さ、いろんな自然現象を説明できますよ』、ということを証明していこうとしたんですね。
最終的にこの須弥山(しゅみせん)思想が負けていってしまったのはですね。白夜(びゃくや)という現象。ずっとお日さんが出続けて、日が沈まないという現象。この須弥山(しゅみせん)思想では、最終的には説明できなかったと聞いております。」
「はい。」
「一番最初の、世界大相図という、須弥山(しゅみせん)思想を書き表した、お盆の上に乗っかって天動説を示した地図、須弥山(しゅみせん)図が、1808年、今から200年少し前ですね。
それから、閻浮提(えんぶだい)図がありますけれども、1828年ですね、世界地図が作られていったのがこちらになります。
それから、もっとクローズアップしたインド天竺(てんじく)図がつくられていたのが、1828年になっていきます。
それから50年下ってですね、明治期に入ります。太陰暦から太陽暦と暦(こよみ)が変わるんですね、旧暦から新暦に変わっていく。1872年になっていきます。その3年後の明治8年、1875年に、正式にこの天動説を説くことが禁止されていきます。」