7.幻の『羽衣木橋』と『最勝閣』を後にして
(清水歴史探訪より)
三保半島への参詣の道として、また生活の道として、明治43年から大正12年までのわずか13年間だけ存在した木造の羽衣橋。その先には、『竜宮城』とも呼ばれた最勝閣がそびえていました。
(清水歴史探訪より)
『竜宮城』も消え、橋の廃止から90年を経た今、『災害対策や観光振興策として新たに清水港を渡る橋をかけてはどうか』という提案もいくつか出されているそうです。景勝の地、振興の地、そして産業の地として、清水港周辺は今も人々を引き付けているようです。
お話は、静岡市山岳連盟 常任理事の鷲山 久さんでした。
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
お相手は、石井秀幸でした。
この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いのいそべ会計がお送りしました。いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。
八紘一宇(はっこういちう)
八紘一宇とは、国柱会の田中智學先生が国体研究に際して使用した語句で、「道義的に天下を一つの家(注)のようにする」という意味であります。 『八紘一宇』は、関東軍軍歌や愛国行進曲にもでてきます。極東軍事裁判の検察側は、「軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」と主張している。これに対して、弁護側は「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」と主張した。
(注)この当時の家には、必ず家長がおりました。家長に相応しいのは、天皇陛下?それとも日蓮上人?田中智學先生や当時の人はどのように考えたのでしょうか?
田中智學先生ひきいる国柱会とは?
純正日蓮主義を奉じる宗教右派として知られ、国柱会の名称は、日蓮上人の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から田中智学先生によって命名されました。で、国柱会の詳しい教義ですが、『調べてみたが、よくわからない』の一言であります。ただ、国柱会が我が国に与えた影響は大きかったようであります。
国柱会に影響を受けたと思われる人物
宮沢賢治や北原白秋をはじめとして、国柱会から影響をうけた人々は、数限りなくおります。その中で私が選んだ人物が下記の人々であります。ただし、影響を受けたからと言って、国柱会に共鳴しているとは限りません。
坪内逍遥 つぼうち-しょうよう
高山樗牛 たかやま-ちょぎゅう(1871-1902)
明治時代のドイツ文学者,評論家。ニーチェを日本に紹介。
田中光顕ーたなかみつあき(1843~1939)
政治家。高知県生まれ。宮中に絶大な権力を築いた。最後の志士。
ポール・リーシャン夫妻
フランス人。弁護士。
石原莞爾ー
陸軍軍人。関東軍参謀として満州事変と満州国建設を指揮したことで知られる。東條と対立により、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れる。
北一輝(きた‐いっき)
国家主義者。右翼運動の理論的指導者。著「日本改造法案大綱」は青年将校に大きな影響を与え、二・二六事件に連座して死刑。
井上日召
武見太郎 たけみ-たろう(1904-1983)
昭和32年から57年まで日本医師会会長をつとめ,医療保健行政への医師会の発言力をつよめ,「けんか太郎」の異名をとった。
宮澤賢治(みやざわけんじ)
宮澤賢治は岩手県花巻に生まれた。家業は古着質商であったが、浄土真宗の信仰あつい家庭で、三歳ごろ、すでに「正信偈(しょうしんげ)」「白骨の御文章」を暗誦したと言われている。周知のように、賢治は盛岡中学を卒業した十八歳の秋、島地大等編『漢和対照、妙法蓮華経』を読んで身ぶるいするほどの感動をしたというが、そこは幼時から育った家庭環境の影響があることは否めない。
盛岡高等農林学校農学科第二部(現岩手大農芸化学科)に進学してからは、いよいよ『法華経』の信仰が深まった。
賢治が国柱会(こくちゅうかい)に入会したのは大正9年で、同年12月2日付の友人保阪嘉内あての手紙に、「今度私は国柱会信行部に入会致しました」とある。
盛岡高等農林学校農学科第二部(現岩手大農芸化学科)に進学してからは、いよいよ『法華経』の信仰が深まった。
賢治が国柱会(こくちゅうかい)に入会したのは大正9年で、同年12月2日付の友人保阪嘉内あての手紙に、「今度私は国柱会信行部に入会致しました」とある。
しかし大正7年2月末から妹トシの病気看護のため母と共に上京し、翌8年2月まで滞京するが、その間に智学先生の講演を鶯谷の国柱会館で一度聴聞(ちょうもん)したことがあると前記の手紙にあるから、国柱会を知ったのはその頃であろう。大正8年の編と推定される『攝折御文、僧俗御判(しょうしゃくごもんそうぞくごはん)』は、先生の『本化攝折論(ほんげしょうしゃくろん)』および日蓮聖人御遺文からの抜き書きであるが、賢治の主体的信仰の確立はその頃とみられる。
大正10年1月、父母の改宗を熱望していれられず、突如上京して国柱会館を訪れ、高知尾智耀(たかちおちよう)講師から「法華文学ノ創作」をすすめられ、筆耕校正(ひっこうこうせい)の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中する。国柱会の街頭布教に従事したのもその頃だが、妹トシ病気のため帰郷する。
賢治は『法華経』の信仰と科学の一如(いちにょ)を求めたが、そのことは数多くの作品にも反映している。
大正10年1月、父母の改宗を熱望していれられず、突如上京して国柱会館を訪れ、高知尾智耀(たかちおちよう)講師から「法華文学ノ創作」をすすめられ、筆耕校正(ひっこうこうせい)の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中する。国柱会の街頭布教に従事したのもその頃だが、妹トシ病気のため帰郷する。
賢治は『法華経』の信仰と科学の一如(いちにょ)を求めたが、そのことは数多くの作品にも反映している。
稗貫(ひえぬき)農学校(現花巻農業高校)の教諭時代、『植物医師』『饑餓(きが)陣営』の作品を生徒を監督して上演したのは、国性芸術から影響されたものであることは確かである。農学校を退職して独居自炊生活に入り、「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」を設立して農村青年、篤農家(とくのうか)に稲作法や農民芸術概論を講義したが、その発想も、やはり智学先生の「本時郷団」におうものといってよい。
賢治は昭和8年9月21日、『国訳妙法蓮華経』の頒布を遺言して永眠したが、法名「真金院三不日賢善男子(しんきんいんさんふにっけんぜんなんし)」は国柱会からの授与である。
大正11年11月に亡くなった妹トシの遺骨は三保最勝閣へ賢治が持参し、今は妙宗大霊廟(れいびょう)に納鎮されている。賢治の遺形も、昭和57年の賢治50回忌に大霊 廟に納鎮され、申孝園には賢治の辞世(じせい)の歌碑が建立された。
賢治は、帰郷してから国柱会とは遠ざかったという説をなすものがいるが、最後まで国柱会の唱導する日蓮主義の信仰に生きたことは、森山一著『宮澤賢治の詩と宗教』や小倉農文著『雨ニモマケズ手帳新考』などに明らかにされている。
賢治は昭和8年9月21日、『国訳妙法蓮華経』の頒布を遺言して永眠したが、法名「真金院三不日賢善男子(しんきんいんさんふにっけんぜんなんし)」は国柱会からの授与である。
大正11年11月に亡くなった妹トシの遺骨は三保最勝閣へ賢治が持参し、今は妙宗大霊廟(れいびょう)に納鎮されている。賢治の遺形も、昭和57年の賢治50回忌に大霊 廟に納鎮され、申孝園には賢治の辞世(じせい)の歌碑が建立された。
賢治は、帰郷してから国柱会とは遠ざかったという説をなすものがいるが、最後まで国柱会の唱導する日蓮主義の信仰に生きたことは、森山一著『宮澤賢治の詩と宗教』や小倉農文著『雨ニモマケズ手帳新考』などに明らかにされている。
国柱会百年史より
宮沢賢治は、一時期国柱会に傾注した。妹の遺骨を抱いて日蓮教・国柱会本部・最勝閣に行く時、羽衣木橋を渡ったと思われる。有名な『雨にもマケズ』は宮沢賢治の日蓮教徒としての決意を表すものとされる。
さらに、『国柱会百年史』には次の文章も乗っていた。
宮澤賢治の思い出
歌人 岩田登久也
彼は田中智学先生の著書は悉く(ことごとく)読破した。とりわけ『妙宗式目講義録』(日蓮主義教学大観)は五度も読み返した。その異常な読書力と、理解力と記憶力は常に吾々の瞠目(どうもく)するところであった。また仏前に唱題する時の彼のお題目は、凛々としてあくまで力強く美しく朗々として気品が高かった。あの声量と、魅力ある音声の味わいと、透徹した清澄(せいちょう)は、恐らく終生吾々の耳朶から離れぬであろう。
或る冬の夜であった。彼は題目を唱えて町内を歩いた。常に吾々に、法華経を受持する者は万人の前で高らかに唱題をなし得る者であらねばならぬ。また唱題することによって自らの信念も昂揚すると云っていた。彼は日頃の言説(げんせつ)を実行に移したのだ。寒い町の通りを唯一人、彼は「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と声も高らかに唱題して来るのであった。吾々はその声を耳にした時、「あ賢さんだな、賢さんだな」と云ったが、何だか愕愕と身がふるえて深い感動が身内から湧き上がるのを覚えた。
その声は段々近づき、やがて私達の家の前を、真直に向うをむいて唱題しながら歩いてゆく彼の姿を見た時、一瞬尊厳なものに触れ得た感がした。彼のその時の服装は暗いのでよくは見えなかったが、絣か何かの普段着であったと思う。
その頃、青い紙の『天業民報』を愛読していたが、それを町の人通りの多い辻々へ賢治氏と私とで掲示板へはりつけて置いたものである。どうかして法華経に対する関心を高め、いちはやく町民全体に改宗をして貰いたいの一心であった。
或る冬の夜であった。彼は題目を唱えて町内を歩いた。常に吾々に、法華経を受持する者は万人の前で高らかに唱題をなし得る者であらねばならぬ。また唱題することによって自らの信念も昂揚すると云っていた。彼は日頃の言説(げんせつ)を実行に移したのだ。寒い町の通りを唯一人、彼は「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と声も高らかに唱題して来るのであった。吾々はその声を耳にした時、「あ賢さんだな、賢さんだな」と云ったが、何だか愕愕と身がふるえて深い感動が身内から湧き上がるのを覚えた。
その声は段々近づき、やがて私達の家の前を、真直に向うをむいて唱題しながら歩いてゆく彼の姿を見た時、一瞬尊厳なものに触れ得た感がした。彼のその時の服装は暗いのでよくは見えなかったが、絣か何かの普段着であったと思う。
その頃、青い紙の『天業民報』を愛読していたが、それを町の人通りの多い辻々へ賢治氏と私とで掲示板へはりつけて置いたものである。どうかして法華経に対する関心を高め、いちはやく町民全体に改宗をして貰いたいの一心であった。
(『大日本』昭和18年3月号より抜粋、題は編者が付す)
宮沢賢治は死ぬまで、国柱会に傾注していたのでしょうか?『国柱会』側の懸命な努力とは裏腹に、一般的には疑問視されております。では、『化城の昭和史』に登場する宮沢賢治を紹介します。
化城の昭和史(上)P94より引用
同じころ正月下旬、早朝のことであった。ひとりの若者が東京下谷(したや)、鶯谷の国柱会(こくちゅうかい)本部の玄関先に立った。大きな風呂敷包みを背おい、洋傘一本をぶらさげた風体である。
寒さのきびしい朝で、受付の婆さんが唯一人、手あぶりの火鉢を抱えこんでいる。本部職員は未だ誰も登庁して来ない。
「……おら中っても(あたっても)いがべか……」
若者は口内で呟いた。この難解な東北弁を婆さんは聞き分けられない。
いいです、さおあだりやんせ……当然の返事は全く裏切られて「あんた誰?何の用だい」
意地悪く突き放された。手あぶりを若者に強奪されるのではないか、と恐れて婆さんは股でいっそう強く絞めつけた。
若者に強奪しようなどという意図は毛頭なかった。ただ寒かっただけである。
若者はこの三年後、自作の詩篇「小岩井農場」でこの情景を再現する。
「……おら中っても(あたっても)いがべか……」
若者は口内で呟いた。この難解な東北弁を婆さんは聞き分けられない。
いいです、さおあだりやんせ……当然の返事は全く裏切られて「あんた誰?何の用だい」
意地悪く突き放された。手あぶりを若者に強奪されるのではないか、と恐れて婆さんは股でいっそう強く絞めつけた。
若者に強奪しようなどという意図は毛頭なかった。ただ寒かっただけである。
若者はこの三年後、自作の詩篇「小岩井農場」でこの情景を再現する。
火は雨でかへつて燃える
自由射手(フライシユツツ)は銀そら
ぼとしぎどもは鳴らす鳴らす
すつかりぬれた 寒い がたがたする
自由射手(フライシユツツ)は銀そら
ぼとしぎどもは鳴らす鳴らす
すつかりぬれた 寒い がたがたする
上野の社を抜けてくるとき路傍(ろぼう)に放置されたままの焚火があったのかもしれない。
「それは何だね」
受付部屋の戸口にしょんぼり立ちつくす若者に、婆さんは背中の荷物をたずねた。
「御本尊と御書――」
「あんた、信者さんかい」
「信行衆」
「どこから来たんだね」
「花巻……」
「花巻ってどこだい?いずれ遠いところなんだろ」
ようやく婆さんは若者への迂散臭さを解いた。だが、それから懇々と“お諭し”をはじめたのである。
国柱会を慕って日に一人や二人、必ず故郷や家を捨てた狂信者が現れる。でもここではそんな者は取り合わない。本部に住みこんで信行ひとすじに、などと甘い夢を見たら端から裏切られる。国柱会はそんな変質者を必要とはしないのだ。
「ほんとに信心やる気なら、ちゃんと働き口を探して、おマンマの心配もなくなり、ちっとはお祖師さまへのお賽銭を上げられるようになってから此処へ手伝いにくるといい」
「働き口を探してからですか。ここの国柱産業株式会社なんかで使ってくれませんかね」
故郷にいるとき、やれ本化聖典大辞林だ、日蓮聖人遺文全集、妙行正軌の購読でかなりの金をそこへ注ぎこんできたのである。
でも若者は、あくまでも純粋であった。すぐに主裁田中智学(たなかちがく)の文章を思いうかべる。
「それは何だね」
受付部屋の戸口にしょんぼり立ちつくす若者に、婆さんは背中の荷物をたずねた。
「御本尊と御書――」
「あんた、信者さんかい」
「信行衆」
「どこから来たんだね」
「花巻……」
「花巻ってどこだい?いずれ遠いところなんだろ」
ようやく婆さんは若者への迂散臭さを解いた。だが、それから懇々と“お諭し”をはじめたのである。
国柱会を慕って日に一人や二人、必ず故郷や家を捨てた狂信者が現れる。でもここではそんな者は取り合わない。本部に住みこんで信行ひとすじに、などと甘い夢を見たら端から裏切られる。国柱会はそんな変質者を必要とはしないのだ。
「ほんとに信心やる気なら、ちゃんと働き口を探して、おマンマの心配もなくなり、ちっとはお祖師さまへのお賽銭を上げられるようになってから此処へ手伝いにくるといい」
「働き口を探してからですか。ここの国柱産業株式会社なんかで使ってくれませんかね」
故郷にいるとき、やれ本化聖典大辞林だ、日蓮聖人遺文全集、妙行正軌の購読でかなりの金をそこへ注ぎこんできたのである。
でも若者は、あくまでも純粋であった。すぐに主裁田中智学(たなかちがく)の文章を思いうかべる。
――ただ自分だけ利益を余計得よう。それは商人根性だ。吾が親を慕うのが孝行であるという様な小さな料簡はこれ亡国の商業、亡国の孝行である。
さてこの若者こそ二十四歳になった宮沢賢治であった。東北花巻の旧家に生まれ、何事をなすにも両親の眼の色をうかがわねばならなかった。盛岡高等農業(現岩手大学農業部)を卒業したあとも父と意見が合わなかった。賢治は親友の保阪嘉内にこんな文章を書きおくる。
――今は摂受(しょうじゅ)を行ずるときではなく折伏(しゃくぶく)を行ずるときだそうです。けれども慈悲心のない折伏は単に功利心に過ぎません。
摂受主義は体制派日蓮教団がえらんだ道で、田中智学らは激しくその姑息な姿勢を排して折伏主義に徹しようとつとめたのである。
宮沢賢治はその二十一歳の春には父を折伏できず、なすところもなく家業(質商)の店番に甘んじてきた。
それが今回は断固たる決意に燃えてと言いたいところだが、店番をしていて夜が更けるにつれて賢治は居ても立ってもおれなくなった。何とかしてこの小天地花巻を脱出しなければならない。
田中智学の文章が耳底(じてい)でこだましている。
宮沢賢治はその二十一歳の春には父を折伏できず、なすところもなく家業(質商)の店番に甘んじてきた。
それが今回は断固たる決意に燃えてと言いたいところだが、店番をしていて夜が更けるにつれて賢治は居ても立ってもおれなくなった。何とかしてこの小天地花巻を脱出しなければならない。
田中智学の文章が耳底(じてい)でこだましている。
――諸君は聖祖(日蓮)の命じ賜う所とあらば、たとえ山が崩れて来ようが、海が寄せて来ようが、天が堕ちようが地が裂けようが、いささかも狐疑逡巡(こぎしゅんじゅん)することなく、絶対的にこれを行り遂げ(やりとげ)ねばならぬ。聖祖の止め(とどめ)賜う所とあらば、たとえ主君の命でも父母の勤めでも、妻子が手をすって頼むとも、その為に命を取らるるとも、断々乎(だんだんこ)として為してはならぬ。若し口にはその通り唱えても心と身にこれを行わなかったならば、即ち聖祖にそむく師敵であると決定して信ぜねばならぬ。
まんじりともしなかった。もう暁方(あかつきがた)の四時過ぎだ。こんな刻限に質屋へやってくる客もいまい。でも賢治は動かなかった。
何のはずみでか。頭上の棚から書物が二冊落ちてきた。拾い上げた賢治はそれが日蓮聖人の御書だったことを知った。
賢治は五時十二分の始発列車に乗りこむ決断をしなければならなかった。
何のはずみでか。頭上の棚から書物が二冊落ちてきた。拾い上げた賢治はそれが日蓮聖人の御書だったことを知った。
賢治は五時十二分の始発列車に乗りこむ決断をしなければならなかった。
この上京を、賢治研究家の平尾隆弘はこう評ずる。
――田中智学の浅薄(せんぱく)な実践の概念を、賢治は自身の痛みとして過剰に引き寄せた。
また見田宗介(岩波書店版「宮沢賢治」の筆者)は、
――賢治はこのような倫理的恫喝にだけは弱い人間である。
と言いあてる。
賢治はすでに買いこんでおいた日蓮聖人の御像を祀った仏壇を背おって国柱会本部へやってきたのだが、処遇は受付婆さんの言うとおりだった。やがて応接に現れた幹部は宮沢賢治を鼻であしらった。
もちろん、当時の賢治は全く無名だったし、詩の一扁も未だ発表してはいなかった。
賢治はすでに買いこんでおいた日蓮聖人の御像を祀った仏壇を背おって国柱会本部へやってきたのだが、処遇は受付婆さんの言うとおりだった。やがて応接に現れた幹部は宮沢賢治を鼻であしらった。
もちろん、当時の賢治は全く無名だったし、詩の一扁も未だ発表してはいなかった。
化城の昭和史P106より引用
賢治は国柱会が主唱する国粋ファショシズムにはほとんど馴染まなかったようである。彼は法華経が描く広大でまばゆい宇宙宇系銀河の空間を北上川の夜空から透視することができた。