「今ちょうど私たちが歩いているのが、日の出埠頭の倉庫街のところなんですけれども、当時この場所というのはどんな様子だったんでしょう。」
「海の中ですね(笑い)。」
「海の中ですか。」
「巴川の河口の中ですね。ですから、昔の巴川の河口というのは、約1キロ近く広がっていたんですよね。」
「かなり幅広いですね。」
(清水歴史探訪より)
「だから、壮士の墓ですね、幕末の次郎長さんが葬っていただいた。壮士の墓あたりが東側の土地の境目というか、半島みたいな、先端です。大正初めぐらいから埋め立てを始めて。ですから、この羽衣木橋も大正12年に廃止になったんです。だから、清水港の拡張とともに、橋も消えたと。築地町というのがございます。だいたいこのあたりですね。築地町というのは、東京の築地もそうですが、埋立地なんです。読んで字の如しで、土地を築く、埋立地というのは名残りですね、唯一の。」
「今私たちが歩いているこの道路のあたりも、もう波の下だったわけなんですね。」
「そうですね。ですから、幕末には巴川の橋は、河童橋ですか、銀座の奥の。旧東海道しかなかったですね。だから、港橋・富士見橋、今はありますけれど、そのころは河童橋・旧東海道の清水銀座の奥の橋しかなかった。だから、明治の初期のころの地図を見ると、その東海道の橋だけ。あとは船で渡る。」
「やっぱりこう、海の何か広がっている雰囲気がありますね。」
「そうですね、幕末あたりの絵図を見ると、やはり松林に囲まれてる絵が多いですよ。」
昔の清水湊は、巴川の両岸。向こうの海側の土地が「向島」。
「今は全く風景が変わってしまっているわけなんですね。」
「そうですね。少しでも、1本でも2本でも松があればね、名残りがあるんですけど。最近は、津波の防波堤とかそんな話になってきているようです。」
(清水歴史探訪より)
「ええ、これからも景観が変わっていくんでしょうね。」
「そうですね。」
・・・車が通る音・・・
「巴川の河口のところまでやってきました。現在の国道の羽衣橋なわけですね。ここを渡って巴川を越えていくわけなんですけれども、今の巴川は狭いですね。」
「そうですね。これで50メートルあるかないかじゃないですか。そんなもんですね。」
「はい。昔は、この河口というのはもっとずーっと広かったわけなんですね。」
「広いですね。ここから壮士の墓、あのあたりまで水じゃなかったですか。」
「はい。」
「ですから、800メートル近く河口があったんじゃないですか。」
「今はたくさんの車が通っている国道ですけれども、このへんも水があったわけなんですね。」
「そうですね。ちょうどここが150号と149号の境目だそうです。」
「羽衣橋のちょうど真ん中が、国道番号が変わるんですね。」
「そうです。」
「普段通っていると、全然気が付きませんね。」
「これもマニアの人しか知らないみたいですけれども(笑い)。」
「そうなんですか。」
「ええ、150号線が駒越のほうから延長してきたもんですからね、それで境目がここになった。」
「149号というのは、短い国道ですね。」
「そうです。」
・・・・車が通る音・・・