1.国柱会本部『最勝閣』と『羽衣橋』について
私は、3年ほど前の平成24年から『清水歴史散策』を始めました。この時には、全く清水の歴史は知りませんでした。第12話で、とりあえず『清水歴史散策Ⅰ』が終了しました。これを記念して最初の冊子『清水歴史散策Ⅰ』を作成しました。当初は目次がそのまま表紙になっていました。従業員の一部から、せめて表紙ぐらいきちんと作るようにと抗議がありました。
そこで、古い三保の写真を探して表紙に飾らせていただきました。その写真に「三保最勝閣の富士」と記載されていました。当初、「最勝閣」の意味が分からず、清水の南幹線に「千番閣」という焼肉屋があったので、もしかしたら飲食店かと思っておりました。
しかし、調べてみてびっくりしました。日本の国に多大な影響を与えた田中智學の国柱会の本部があったのです。さらに、清水には『羽衣木橋』という清水波止場の近くと三保とを結ぶ橋があったことが分かりました。
以来、是非とも『清水歴史探訪』で取り上げ、『清水歴史散策』の1ページに加えたいと思っておりました。
国柱会100年史より
私は『国柱会』に興味を持ち、ネットで調べたり、「国柱会100年史」という本を買ったりしました。その結果、『国柱会』の田中智學先生が右翼と呼ばれる石原莞爾や北一輝、さらに血盟団の井上日召にも影響を与えていることが分かりました。
どうも 田中智學先生は法華経を国教とし、いずれ政治的にも思想的にも世界を統一し、世界に平和と繁栄をもたらすという、とてつもない野望を抱えていたようです。そして、富士山に国立戒壇を建立し、国教が成立後は、清水を首都にすることまで夢見ていたようです。
ところで、田中智學先生の信者である石原莞爾により満州国家が建国され、田中智学先生による造語『八絋一宇』はいつの間にか大東亜共栄圏の構想になっていました。
さて、ネットで調べると、清水では異端の宗教家が相次いで生まれておりました。
元「御穂神社」の宮司で、現在の清水区岡町にある「月見里笠森稲荷」の宮司であった長澤雄楯(かつたつ)は、神社を尋ねてきた者を神がかり状態にし、日露戦争の開戦日や勝敗まで言い当てたそうです。
さらに清水では、三五(あなない)教をは初めとする宗教が起きたそうです。
PL教の本部も清水にありました。その頃、PL教は「ひとのみち」と呼ばれていたが、清水駅の近くに本部があり、多い時で10万人を越える信者がいたそうです。やがて清水の馬走に本部を移設しようとしたとろ、地元住民の反対にあったそうです。その話を聞いたきつけた塩爺こと塩川正十郎の父親である塩川正三が誘致に動き、大阪に移転したそうです。