(清水歴史探訪より)
「前後に、やはり引込み線の分岐するための用地はあったようなので、その名残でやはりこの広場のほうが大きくなっていると思います。
サイクリングロードに沿って木が生えているところあたりが、だいたい折戸駅のプラットホームがあったあたりで、ヨットハーバーの建物があるあたりに、昔、貯木場が木材を上げるためのクレーン設備があったところです。
折戸駅を出た後に、目の前に富士山が見えるポイントがあったので、天気さえよければ富士山がバシッと見えるものかと思われます。
この広場のところにあります、藤棚があるんですけれども、こちらの藤棚と折戸の市営住宅ですか、こちらは昔からあったもので、昔写真にも藤棚のほうはしっかり写っています。」
自転車道と遊歩道に姿を変えて続いてきた清水港線跡地は、やがて終点三保駅の跡に近づきます。
「第二宮方踏切があったようなので、このあたりからもう清水港線の終点の三保駅構内に入った形ですね。」
「はい。色々公園に整備されていますけれども、今、池のあたり、芝生になっていたりする部分というのは、ここにも色々線路があったわけですか。」
「そうですね、まさにこのあたりで複数本の線路が並行して、貨物列車や客車とかを置いておく線路が分岐して並んでいたあたりですね。」
(清水歴史探訪より)
「今いるあたりが、三保駅の残っているプラットホームから西側にちょっといったところにあるんですけれども、このあたりに昔貨物列車用のプラットホームがありまして、そのあたりに現在立っています。」
「それで今、新しく津波避難タワーができていますけれども、そのすぐ横あたりなんですね。」
「そうですね、津波避難タワーがあるところがまさに本線が一本通っていまして、その奥、海側に向かってあと線路が2~3本並んでいました。」
(清水歴史探訪より)
「さていよいよ旧三保駅のプラットホームのすぐ横に来たわけなんですけれども、混合列車が着いたときには、ここへ着いたわけですか。」
「そうですね、貨物列車、混合列車が入って三保駅のホームの有効地を限界まで車両が入りまして、混合列車がここへ入線したところになります。混合列車が長さがあった時代は、最後尾につける客車がホームに入りきらずに三保駅職員がタラップを出して降りられるようにしたそうです。」
「駅舎の位置はどのあたりだったんですか。」
「駅舎はですね、階段が途中プラットホームの中間にあるんですけれども、そこからまっすぐ降りたところに駅舎がありました。津波避難タワーの場所がまさに清水港線の三保駅の駅舎があったあたりになります。」
(清水歴史探訪より)
「プラットホームから離れたところに、大きな貨車が展示されていますけれども、これはどういうものでしょう。」
「はい、これは日本軽金属のほうの私有貨車でして、アルミナを輸送するための専用貨車で、車体は純アルミで作られている特殊な車体でして、上からアルミナの粉末を入れまして、清水港線を走り、東海道線を走ってその後富士川駅から延びていた日本軽金属蒲原工場のほうにアルミナの輸送をして、アルミニウムを造っていました。」
「その貨車を引くような形で、機関車もありますね。」
「はい、清水運送さんが使用していたディーゼル機関車で、こちらの車両は、巴川口駅の付近の富士見埠頭のほうの引込み線で活躍していた機関車を、こちらのほうで展示しているようです。入れ替え用のスイッチャーと呼ばれる形で、貨車の出し入れをする形で使っていたものです」
(清水歴史探訪より)
「この後、清水港線の線路はどうなっていたんですか。」
「はい、プラットホームについては、機関車等は奥の方まで、三保造船の方までずっと延びていきまして、機回し線という形で機関車を付け替える線路が、だいぶ奥まで続いていました。それ以外に、日本軽金属のほうに分岐した貨物線が、貝塚の埋立地の日本軽金属の最末端のほうまで延びていました。」