(清水歴史探訪より)
「追ってきた丹波守は、『家康公がここにいるだろう』と言って、かなり迫ったんでしょうか。」
「間違いなく近くまで来ているという風に思った。それで、たぶん念のために住職に確認をとったという風なことだと思います。そこで当時の住職は、『ここには来ていない』という風にはっきりと言ったそうであります。」
「はい。もしそのときに住職に救われていなかったら、徳川幕府はなかったかもしれませんね。」
「そうですね、また乱世が続いていたかもしれませんね。」
「はい。」
ここに今川氏の駿河国支配は終わり、これにより武田氏と徳川氏が直接対峙することとなりました。武田信玄は東海道西方面と伊豆半島監視のため、久能山々頂に久能城を築城、城将(城代)として、川中島で功のあった今福石見守友清(浄閑斎)を配置しました。
1573(元亀3)年、遠江諏訪原城が完成したため、友清は城将として遠江諏訪城に移動します。同年、三方原の戦いでは武田信玄が病死したため、武田軍は撤退し、決着は着きませんでした。
1575(天正3)年、徳川軍の急襲に友清は戦死、息子の長男、丹波守虎孝(昌守)、次男昌和、三男和泉守昌常の3人は久能城に逃げ帰りました。
1582(天正10)年、織田・徳川連合軍が武田氏に対して総攻撃を開始、江尻城の城将穴山梅雪は戦わずして、徳川軍に全面降伏しました。
久能城での戦いが激しくなると、虎孝は城を脱出して逃亡。昌和は戦死、昌常は降伏して久能城を明け渡しました。その後、昌常は徳川家康に従い、幕府に出仕しています。
家康は椿の木の中に身を隠したそうです。
もちろん、虎孝も家康を追ってやって来ますが、貫主、日応上人は押し問答の末、虎孝は諦めたといいます。
その後、襲撃に失敗した今福丹波守虎孝は、村松の本能寺の寺領である、この杉原山の山中で自害したのです。
そして、村人が虎孝供養のために建てたのが杉原山虚空蔵堂でした。
(清水歴史探訪より)
椿の木は代替わりしていましたが、現在も季節には美しい花を咲かせています。命をかけた戦国武将たちの駆け引きの舞台となったこの地を、真っ赤な椿の花が彩っているようです。